「みささぎめぐり」へようこそ。歴代天皇の足跡を辿る旅。
今回は、鎌倉幕府に対抗して承久の乱を起こした第82代:後鳥羽天皇(ごとばてんのう)をご紹介します。
文武両道の天才として知られ、和歌の発展や刀剣製作に情熱を注いだ多才な天皇です。武家政権に敢然と挑んだ激動の足跡とその生涯に迫ります。
後鳥羽天皇の人物像・エピソード
後鳥羽天皇の本名は尊成(たかなり)といいます。その人となりは、一言で表すならば多才多芸です。学問や芸術だけでなく、身体能力にも優れており、従来の公家の枠に収まらない活発な人物でした。
特に和歌に対する情熱と才能は高く、自ら優れた歌を多く詠んだだけでなく、宮廷歌壇を活性化させました。一方で武芸にも傾倒し、乗馬や狩猟、相撲、さらには水練(水泳)を好んで行いました。
また、刀剣へのこだわりは強いものがありました。諸国の優秀な刀工を京都に招いて月替わりで刀を鍛えさせる「御番鍛冶」の制度を設け、天皇自らも槌を振るって刀を打ったと伝えられています。この天皇自作の刀は「菊御作(きくごさく)」と呼ばれ、皇室の紋章である菊の御紋を刀身に刻む起源となりました。このように、自分の手で物事を作り上げ、実践することを好むエピソードが数多く残されています。
新古今和歌集の編纂、朝廷の権威回復への挑戦
後鳥羽天皇が成し遂げた最大の文化的功績は、勅撰和歌集である『新古今和歌集』の編纂でしょう。
彼は日本の和歌の歴史における集大成を目指し、藤原定家、藤原家隆、源通具、飛鳥井雅経、寂蓮といった当代最高峰の歌人たちを撰者に任命します。
和歌所の設置に始まり、選定のプロセスにおいては天皇自らが深く介入した。単に撰者に任せきりにするのではなく、最終的な歌の配列や採用不採用の決定に自らの審美眼を反映させ、納得がいくまで推敲を重ねたのでした。
こうして完成した新古今和歌集は、象徴的で妖艶な美の世界観を持つ「新古今調」を確立し、日本の文学史において不朽の名作として評価されています。
一方で、政治・軍事面においては1221年に勃発した「承久の乱」が挙げられます。
鎌倉幕府の創始者である源頼朝の死後、源氏の将軍家が三代実朝で途絶えると、幕府の実権は執権である北条氏へと移った。後鳥羽上皇はこの状況を好機と捉え、朝廷への権力奪還を目指して北条義時追討の院宣を発布したのでした。
この試みは、東国御家人の強固な結束を崩せず、朝廷側の全面的な敗北という結果に終わります。後鳥羽上皇自身は隠岐島へ流されることとなり、政治的な目的は失敗に終わったものの、武家政権に対して朝廷の威信をかけて真っ向から挑んだその姿勢は、後世の建武の新政や幕末の勤皇運動における精神的支柱となり、日本の歴史に巨大な足跡を遺すことになったのでした。
後鳥羽天皇治世の時代背景
後鳥羽天皇が在位し、また後に院政を敷いた時代は、古代の貴族社会から中世の武家社会へと、日本の社会構造が根底から覆る激動の最中にありました。
1183年、木曽義仲の軍勢が京都に侵攻した際、平氏は幼い安徳天皇と三種の神器を奉じて西国へと都落ちした。京都に残された朝廷は、急遽、わずか4歳であった尊成親王(後鳥羽天皇)を即位させたのでした。
この即位は、三種の神器が手元にない状態で行われた異例中の異例の儀式でした。後に平氏が滅亡し、安徳天皇が壇ノ浦の戦いで入水した際、草薙剣が海中に没して失われたことは、後鳥羽天皇にとって生涯のコンプレックスとなったとされます。
彼が過剰なまでに刀剣製作に執着し、自らの権威を証明しようとした背景には、この「神器なき即位」という不完全な始まりが影響していたのかも知れません。
1198年に土御門天皇へ譲位して上皇となってからは、約20年間にわたり院政を敷き、京都の絶対的な最高権力者として君臨することになります。
この時期、上皇は多趣味な生活を送り、特に熊野詣には生涯で28回も赴くなど、熱心な信仰心を見せたのでした。また、大阪と京都の境に位置する水無瀬離宮(現在の大阪府島本町)を造営し、そこを舞台に狩猟や和歌の会、すごろくなどの遊びに興じたとも伝わります。
承久の乱の敗北後は、遠く離れた隠岐島(現在の島根県隠岐郡海士町)に配流されました。
厳しい環境でありながらも、彼は島で19年間を過ごし、その間も和歌の推敲を続けた。隠岐の地で崩御するまで、彼は自らの境遇を歌に託しつつ、高潔な帝王としてのプライドを失うことはありませんでした。
後鳥羽天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性
後鳥羽天皇は、高倉天皇を父に持ち、平清盛の娘である建礼門院徳子を母とする安徳天皇の異母弟にあたります。祖父である後白河法皇の崩御後に本格的な親政、そして院政を開始し、自ら主導して朝廷を牽引しました。
特定の豪族に依存することを避けた天皇は、自らの直轄軍として「北面武士」を強化し、新たに「西面武士」を組織することで、独自の武力と近臣集団を構築しました。
一方、最大の敵対勢力となったのが、北条氏率いる鎌倉幕府です。当初は源頼朝や源実朝との間で良好な関係を維持しようと試みましたが、実朝が暗殺され、北条義時による執権政治が強固になると、朝廷を軽視する動きに対抗せざるを得なくなりました。この北条氏との対立関係が、最終的に承久の乱という全面衝突を引き起こす原因となりました。
後鳥羽天皇陵の基本情報
天皇名:第82代 後鳥羽天皇(ごとばてんのう)
御父:第80代 高倉天皇(たかくらてんのう)
御母:藤原殖子(ふじわらのしょくし / 七条院、坊門信隆の娘)
御陵名:大原陵(おおはらのみささぎ)
陵形:円丘(えんきゅう)
所在地:京都府京都市左京区大原勝林院町
交通機関等:JR京都駅または京阪本線出町柳駅から京都バス「大原」行きに乗車し、終点「大原」バス停で下車後、北東へ徒歩約15分。
御在位期間(西暦):1183年9月8日 〜 1198年2月18日(譲位後の院政期間は1198年 〜 1221年)
