ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は、第82代:後鳥羽天皇(ごとばてんのう)にスポットライトを当てます。
源平の動乱期に神器なき即位という異例の幕開けを迎え、後に鎌倉幕府との全面対決である「承久の乱」を起こした英主。文武両道の天才として華やかな文化を築きながらも、激動の運命に翻弄されたその生涯に迫ります。
後鳥羽天皇の人物像・エピソード
後鳥羽天皇は1180年8月6日、高倉天皇の第四皇子として誕生しは尊成(たかなり)と称します。
異母兄である第81代・安徳天皇の治世下、木曽義仲(源義仲)の軍勢が京都へ乱暴狼藉を働きながら侵入した際、平家一族は安徳天皇と三種の神器を奉じて西国へと逃亡しました。
この前代未聞の緊急事態に際し、京都に残された尊成親王は、三種の神器が手元にない状態のまま、わずか4歳で皇位に就くこととなりました。
この「神器なき即位」という異例の事態が、彼の波乱に満ちた生涯の幕開けとなります。
文武両道の万能たる天才君主
後鳥羽天皇は、歴代の天皇のなかでも並ぶ者がいないほど多才多芸な人物だったとされています。
学問や和歌の才能において至高の領域に達していただけでなく、蹴鞠、競馬、流鏑馬、さらには相撲や武芸、刀剣の鍛造に至るまで、あらゆる分野に自ら熱中し、プロ顔負けの卓越した技術を習得していました。
伝統的な公家の枠組みに決して収まらない、強烈な自己主張と圧倒的なバイタリティを持った統治者であり、そのカリスマ性は周囲の公卿や武士たちを大いに平伏させ、あるいは畏怖させました。
『新古今和歌集』の編纂と至高の文化的功績
後鳥羽天皇が日本の文化史において成し遂げた最大の功績は、国文学の最高峰の一つである『新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)』の編纂です。
天皇の座を退いて上皇、さらには法皇となった後鳥羽上皇は、自らが主宰となって大規模な「歌合わせ(うたあわせ)」を宮廷で幾度も開催しました。
当時の歌合わせは、単なる優雅な遊びではなく、公家たちが己の面子と全財産、時には命をかけて美を競い合う真剣勝負の場でした。
上皇は、当時の最高の歌人であった藤原定家(冷泉家や御子左家の祖)らを編纂者に抜擢し、彼らに和歌の指導を受けながら、自らも一首一首の選定に深く関与しました。
新古今和歌集に定着した、繊細で妖艶、そして象徴的な美の世界観(幽玄・有心)は、後鳥羽上皇の卓越した美意識が色濃く反映されたものです。
また、上皇は鎌倉幕府の第3代将軍であり、同じく藤原定家から和歌を学んでいた源実朝(自著の『金槐和歌集』の「金」は鎌倉を、「槐」は大臣を意味する)とも、和歌を通じた深い精神的交流を持っていました。
後鳥羽天皇は、自らが一流の歌人であり、同時に最高峰の文化のパトロンとして、日本の美意識の基盤を決定づける偉大な実績を遺したのです。
後鳥羽天皇治世の時代背景
後鳥羽天皇が在位し、後に院政を敷いた12世紀末から13世紀初頭は、古代の貴族社会が終わりを告げ、武士による本格的な武家政権が誕生・拡大していく、日本史上の巨大な激動期でした。
治世の初期、1185年の「壇ノ浦の戦い」によって平家一族は滅亡に追い込まれました。
“武力”の象徴:草薙剣なき即位
その際、最幼の安徳天皇は祖母の二位の尼に抱かれ、三種の神器を身につけたまま関門海峡の荒波へと入水してしまいます。
戦後、朝廷の捜索によって「鏡」などの神器は無事に回収・奪還されたものの、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」だけは関門海峡の深い海の底へと沈んだまま、二度と浮き上がってくることはありませんでした。
後鳥羽上皇は、この失われた王権の象徴を取り戻すため、全国から潜水の名手(海女や海士)を大量に召集し、何年にもわたって海底の潜水捜索を行わせましたが、剣が発見されることはついにありませんでした。
この象徴的な事件の裏側で、東国では源頼朝が着実に実権を握り、1185年には全国へ「守護・地頭」を設置して独自の地方支配権と警察権を確立しました。
古くから”武力”の象徴とされる、草薙剣を持たぬままに即位することになった後鳥羽天皇──。
その将来を暗喩するかのように、時代は大きく武門の棟梁たる源氏の世へと移り変わっていきます。
日本初の武家政権:鎌倉幕府の成立
そして1192年、源頼朝が正式に「征夷大将軍」に任じられたことで、朝廷と並び立つ武家政権である「鎌倉幕府」が名実ともに成立することとなります。
後鳥羽天皇の治世は、このように天皇家を脅かす「武士」という新たな実力者が東の地に出現し、朝廷の絶対的な権威が相対化され始めるという、きわめて緊迫した時代背景の中にありました。
後鳥羽天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性
後鳥羽天皇(上皇)の人間関係、および鎌倉幕府(北条氏)という敵対勢力との相克は、皇室の歴史において最も凄絶な政治的決戦へと発展しました。
源頼朝の死後、鎌倉幕府の実権が北条氏(執権・北条義時)へと移ると、後鳥羽上皇は朝廷の絶対的な権威と権力を取り戻すため、武家政権の打倒を深く決意するようになります。
1221年、上皇は諸国の武士や寺社勢力に対して、北条義時を討伐せよとの「院宣」を発し、天下を揺るがす大乱である承久の乱を引き起こしました。
しかし、幕府側の迅速かつ圧倒的な大軍(東海道、東山道、北陸道から攻め上る軍勢)の前に、朝廷方の軍は各地の防衛線で惨敗を喫し、乱はわずか1ヶ月足らずで幕府側の完全な勝利に終わりました。
乱の結末は、それまでの朝廷の常識を根底から覆す、きわめて冷徹で過酷なものでした。戦勝者となった鎌倉幕府は、首謀者である後鳥羽上皇を隠岐の孤島へと配流するという、前代未聞の厳しい処分を下しました。
さらに、乱に連動していた息子の順徳上皇は佐渡へ、戦いを止めようとしていた土御門上皇も自ら望んで土佐へと配流され、多くの皇族が地方へ流されるという凄惨な悲劇が起きました。
さらに、仲恭天皇は強制的に廃位され、朝廷には天皇を経験していない守貞親王が後高倉院として無理やり擁立されて院政を行うという、極限の異常事態が発生しました。
後ろ盾となった多くの公家や武士を失い、敵対勢力である北条氏によってすべてを奪われた後鳥羽上皇は、隠岐の地で崩御するまでの19年間、京都の華やかな都を想い、失意と無念のなかで過ごすこととなったのです。
後鳥羽天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 後鳥羽天皇(ごとばてんのう) |
| 御 父 | 高倉天皇(たかくらてんのう) |
| 御 母 | 藤原殖子(ふじわらのしょくし / 七条院) |
| 御 陵 名 | 大原陵(おおはらのみささぎ) |
| 陵 形 | 円丘 |
| 所 在 地 | 都府京都市左京区大原勝林院町 |
| 交通機関等 | (バス停) 大原から徒歩約11分 |
| 御在位期間 | 1183年~1198年 |
新古今和歌集という至高の美を紡ぎ、自ら刀剣を鍛えるほどの万能の才を持った天才君主。
しかし、武家政権との全面対決に敗れ、最後は隠岐の海を眺めながら崩御したその後鳥羽天皇の遺骨は、現在、京都の静寂な大原の地に、息子の順徳天皇の火葬塚と並ぶようにして静かに祀られています。
実際にこの大原の地を訪れ、木々に囲まれた静謐な空間に身を置くことで、私たちは歴史の教科書に記された「承久の乱」という文字の奥にある、かつて平安の終焉を戦い、そして隠岐の波間に沈んでいった人々の生々しい息吹と、中世という時代の圧倒的なリアリティを、五感を通じて深く心に刻むことができるのです
