第113代:東山天皇 〜”和”を以て幕府と結び、大嘗祭を再興した温容の帝

「みささぎめぐり」へようこそ。歴代天皇ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。の足跡を辿る旅。

今回は、元禄の華やかな文化と幕閥政治が成熟を迎えた江戸時代中期、父・霊元上皇の激しい反幕路線を静かに抑え込み、自らの温和な品格をもって朝廷と幕府の緊張を和らげた第113代:東山天皇(ひがしやまてんのう)の御生涯をご紹介します。

220年ぶりに復活させた大嘗祭の祈りとともに、元禄の世を気高く駆け抜けた帝の足跡を、ともに辿ってみましょう。

東山天皇の人物像・エピソード

第113代天皇である東山(ひがしやま)天皇の本名は、朝仁(あさひと)と名付けられました。1675年(延宝3年)10月21日、第112代・霊元天皇の第5皇子として誕生しました。母は内大臣・櫛笥隆賀の娘である藤原賀子(新崇賢門院)です。

朝仁親王が即位する背景には、父である霊元天皇の突如たる譲位と政治的激動が存在しました。父・霊元天皇は意配に優れる一方で気性がきわめて激しく、江戸幕府に対して徹底した強硬姿勢を貫く人物でありました。幕府の干渉に激怒した霊元天皇は、1687年(貞享4年)、幕府に対する抗議と自らの強固な院政開立を狙い、わずか13歳の朝仁親王へ唐突に皇位を譲り渡しました。こうして誕生したのが東山天皇であります。

東山天皇の人となりは、気性が荒く摩擦を恐れなかった父・霊元上皇とは実に対照的でありました。極めて温和で穏やかな性格であり、深い聡明さと他者の意見を聞き入れる柔軟性を備えていました。激しい対立が続く朝廷内や公武関係において、感情的な対立を回避し、実利と平穏を選択できる高い政治的知性を身につけていました。

学問や和歌を好み、宮中における規律や風紀の維持に心を配る一方で、元禄文化の華やぐ世相の中にあっても過度な贅沢を戒め、質素で節度ある日常を貫きました。自らの主張を荒々しく押し通すのではなく、相手への礼節を保ちながら着実に朝廷の権威を高めていく姿勢は、多くの公卿や幕府首脳から深い信頼を獲得することとなりました。

また、東山天皇の治世においては、歴史的に有名な「元禄赤穂事件(赤穂浪士の吉良邸討ち入り)」の遠因となる出来事も発生しています。1701年(元禄14年)、江戸城松の廊下において播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に斬りかかった事件は、東山天皇からの年始の挨拶を伝える勅使(柳原資廉、高野保春ら)を接待する重要な儀式の最中に起きました。この勅使派遣は、東山天皇が推し進めた公武親善の重要な国家行事であり、天皇自身も事件の報に触れて強い衝撃を受けたことが記録されています。

徳川綱吉との公武協調と220年ぶりの大嘗祭再興

東山天皇が自らの治世において主導し、達成した最大の歴史的功績は、第5代将軍・徳川綱吉をはじめとする幕府首脳との間に緊密な協調関係を構築し、室町時代の第103代・後土御門天皇以来、約220年間にわたって途絶していた「大嘗祭」を再興させた点にあります。

大嘗祭は、天皇が即位した後に初めて行う皇室最高峰の国家祭祀であります。しかし、応仁の乱以降の朝廷の深刻な困窮と戦乱により、莫大な費用を要するこの儀式は長らく挙行できずにいました。父・霊元上皇の時代には幕府との対立から実現の不可能な状態が続いていましたが、東山天皇は自らの柔和な対応によって幕府との信頼関係を回復させました。

東山天皇の親和的な姿勢を歓迎した第5代将軍・徳川綱吉は、大嘗祭の再興に必要な膨大な経費と物資を幕府から全額拠出することを決定しました。こうして1687年(貞享4年)、内裏において執り行われた大嘗祭の見事な復活は、朝廷が本来保持すべき宗教的・法的な正統性を天下に満天下に示す歴史的快挙となりました。

さらに、東山天皇は賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)や石清水八幡宮への行幸・祭祀(臨時の行幸)も次々と復興させました。幕府からの知行(御料所)の加増も獲得し、前代までの慢性的な財政難を大きく改善することに成功しました。父・霊元上皇の排外的な姿勢とは対照的に、妥協と協調を通じて朝廷の実利と格式を同時に勝ち取った手腕は、近世朝廷の歴史において決定的な転機となりました。

東山天皇治世の時代背景

東山天皇が在位した1687年から1709年という時期は、西暦で言えば元禄から宝永にあたり、江戸幕府の第5代将軍・徳川綱吉から第6代将軍・徳川家宣への過渡期にあたっていました。

政治的には、徳川綱吉による「文治政治」が推し進められ、武力よりも儒学や礼節、学問が重んじられる社会へと変化していました。一方で、極端な動物愛護令である「生類憐みの令」が出され、世相に独特の緊張と不満が漂う時代でもありました。経済や文化においては、町人層を中心とする「元禄文化」が絢爛豪華に花開き、尾形光琳、松尾芭蕉、近松門左衛門、井原西鶴らが各分野で歴史的な名作を生み出していました。

学問や科学の分野でも大きな進展が見られました。将軍・綱吉の庇護を受けた安井算哲(渋川春海)が日本独自の暦である「貞享暦」を完成させ、幕府に「天文方」が設置されたのもこの時代であります。

しかし、治世の後半にあたる宝永年間には、前代未聞の巨大な天災が日本列島を相次いで襲いました。1703年(元禄16年)の「元禄関東地震」、1707年(宝永4年)の「宝永地震」、そして同年の富士山による「宝永の大噴火」など、天地を揺るがす大災害が頻発しました。幕府や朝廷は被災者の救済や復興作業に追われることとなりました。

このような激動の時代背景にあって、東山天皇の日常や心寄せる関心は、学問の探求、和歌の詠作、書道の修練、そして宮中儀礼の研究に向けられていました。天皇は毎日欠かすことなく書籍を開き、古今和歌集や有職故実の研鑽に励みました。

食生活や日常の暮らしにおいては、幕府からの知行加増や全国からの献上品により、かつての酷い困窮状態からは脱していました。京の伝統的な和食や季節の味覚を嗜み、身丈に合った質の高い生活を送っていました。

天皇にとっての最大のゆかりの地は、即位から譲位に至るまで大半の歳月を過ごした「京都御所(土御門東洞院内裏)」です。また、220年ぶりに見事な再興を果たした「内裏・八省院跡」、ならびに崩御の後に御霊が静かに祀られている京都府京都市東山区の「月輪陵(泉湧寺内)」が、東山天皇の温和と偉業に満ちた生涯を今に伝える重要な歴史的聖地となっています。

東山天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

東山天皇を取り巻く人間関係は、父・霊元上皇との深遠な政治的確執、外戚である名門公家・櫛笥家(園家)からの支援、幕府将軍家との緊密な同盟、そして譲位直後に訪れた不運な死によって形作られていました。

皇室内部における最大の対立軸であり、精神的な圧迫となったのは、父である第112代・「霊元天皇(霊元上皇)」です。霊元上皇は退位後も強固な院政を敷き、朝廷の絶対権力者として君臨しようとしました。上皇は幕府に対して徹底した激しい反感を持っていたため、幕府との協調を図る東山天皇の姿勢に対して強い不満と怒りを抱き続けました。東山天皇は父からの不当な圧力や干渉を忍耐強く受け流しつつ、朝廷が破滅の道へ突入するのを防ぐために冷ややかな確執を抱えながら政務を執行しました。

母方の実家である「櫛笥家(藤原北家公条流・園家の分家)」は、内大臣・櫛笥隆賀をはじめとして、朝廷内で東山天皇の足元を支える強力な側近勢力となりました。母・新崇賢門院(藤原賀子)を通じて櫛笥一族は宮中での影響力を深め、霊元上皇の専横を牽制する役割を果たしました。

武家政権との関係においては、第5代将軍・「徳川綱吉」との間で非常に良好な協力関係が築かれました。学問や朝廷の尊厳を尊ぶ綱吉は、東山天皇の親和的な態度を歓迎し、知行の加増や大嘗祭の全面支援を行いました。綱吉の死後、第6代将軍となった「徳川家宣」やその側近である新井白石も東山天皇に対して深い敬意を払い、公武の良好な関係が引き継がれました。

しかし、東山天皇の生涯はあまりにも不運な形で幕を閉じることとなりました。1709年(宝永6年)、東山天皇は自らの第一皇子である慶仁親王(後の第114代・中御門天皇)へ譲位しました。これは、自らが上皇として本格的な院政を開始し、老齢の父・霊元上皇の政治的介入を完全に遮断するための周到な計画でありました。

しかし、譲位からわずか半年にあたる1709年12月、東山天皇は突如として当時の不治の病である天然痘(痘瘡)を発症しました。激しい高熱と病状の悪化により、36歳(満34歳)という若さで急逝しました。自らが主導する新しい朝廷政治の幕開けを直前に控えた中での無念の死でありました。

東山天皇陵の基本情報

項 目 名 内  容
天 皇 名
本   名
御   父
御   母
御 陵 名 月輪陵(つきのわのみささぎ)
陵   形 九重塔
所 在 地 京都府京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
交通機関等 JR奈良線・京阪本線「東福寺駅」下車、東へ徒歩約20分、
または京都市バス「泉涌寺道」バス停下車、東へ徒歩約15分
御在位期間

* **天皇名**:東山天皇(ひがしやまてんのう)
* **本名**:朝仁(あさひと)
* **御父**:霊元天皇
* **御母**:新崇賢門院・藤原賀子(内大臣・櫛笥隆賀の女)
* **御陵名**:月輪陵(つきの輪の・みささぎ)
* **陵形**:石造九重塔
* **所在地**:京都府京都市東山区今熊野泉山町(泉湧寺内)
* **交通機関等**:JR奈良線・京阪本線「東福寺駅」下車、東へ徒歩約20分、または京都市バス「泉湧寺道」バス停下車、東へ徒歩約15分
* **御在位期間(西暦)**:1687年5月6日 〜 1709年7月27日(※旧暦:貞享4年3月25日〜宝永6年6月21日)

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