【コラム】神功皇后 〜伝説の三韓征伐を成し遂げた聖母(正八幡)

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「みささぎめぐり」へようこそ。陵墓めぐりを通して歴史の足跡を辿る旅。

今回は外伝編です。日本史上屈指のカリスマ性を持ち、かつては歴代天皇の一人(第15代)として数えられていたこともある伝説の皇后:神功皇后をご紹介します。

彼女は第14代:仲哀天皇の妃であり第15代:応神天皇の母。また神のお告げを聴く祭祀者でありながら、自ら軍を率いて海を渡った軍司令官でもあり、戦う強き母でもありました。

神功皇后の人物像・エピソード

陵の南に位置する山陵八幡神社。ご祭神は気長足姫(神功皇后)。

神功皇后は、名を気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)といいます。

父は息長宿禰王(日子坐王の孫、開化天皇の玄孫にあたる)、母は葛城高顙媛(多遅摩比多訶の娘、天日矛の末裔にあたる)であり、父方は大王家・母方は但馬の有力豪族の血を引く方でした。

 ※但馬・・・現代でいう兵庫県の豊岡周辺。日本海に面した地域です。

天日矛の末裔で但馬の有力豪族といえば、崇神・垂仁天皇の時代に大王家へ大きな貢献を成した田道間守(タジマモリ。多遅麻毛理とも)がいますが、田道間守からみると神功皇后は姪孫(姪っこの娘さん)に当たります。

また天日矛の正体は、新羅の前身である辰韓の王子とも言われていますが、そうなると神功皇后は母から辰韓の王家の血を引いていた、ということになりますね。

 

神功皇后の事績:三韓征伐と国内基盤の確立

神功皇后といえば、やはり三韓征伐のエピソードでしょう。当時、朝鮮半島には新羅・百済・高句麗という3つの国がありました。

記紀ではその3カ国へ軍を派遣し、その後は年貢を納めさせることになったとされています。きっかけは神功皇后の神懸かり(神の託宣を受ける状態)でした。

 

神懸かりと仲哀天皇の崩御

山陵八幡神社の鳥居をくぐったところ。

夫である第14代:仲哀天皇と筑紫の香椎宮にいた際、皇后である神功皇后が神懸かりします。

神は「西海を渡った先に、金銀財宝に満ちた国(新羅)がある。そこをお前に与えよう」と告げますが、仲哀天皇は高い山に登っても西には海しか見えないとして「そんな国などない。欺瞞の神だ」と神託を信じず、琴を弾くのをやめてしまいます。

するとその不敬により、天皇は間もなく急逝してしまったといいます。急!急すぎる展開!!!!

夫を亡くしてしまった神功皇后ですが、その後すぐに側近である竹内宿禰に琴を引かせ、再度神託を得て自ら軍を率いて西征することを決意します。

今を生きる現代女性もびっくりの、あまりにもメンタルが強すぎる女性ですね。

 

三韓征伐とソツヒコ

階段を登ったところに本殿があります。

息長帯姫の志(新羅への権利主張)を深く理解し、軍事・政治的なパートナーとなったのが、記紀で300歳以上生きたとされる伝説の忠臣・武内宿禰でした。※先述の神懸かりの際に前夫:仲哀天皇に代わって琴を弾いていたのも武内宿禰。

 

【参考記事】武内宿禰 〜大王家と共に古代日本の基盤をつくった”棟梁ノ臣”

 

以前の記事でもご紹介したように、武内宿禰とは役職名であり世襲制だという前提に立つと、この当時の武内宿禰は葛城氏の祖でもある「葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ/武内襲津彦)」なのでしょう。

襲津彦の存在は、百済の歴史書3書のひとつである『百済記』にも、以下のように記述されています。

「壬午(382)年、新羅は日本に朝貢しなかったため、日本は沙至比跪(さちひこ。襲津彦=葛城襲津彦)を派遣し新羅を討伐した」

新羅との戦いがあったこと、襲津彦と思われる人物が中心となり、新羅との実務的な交渉や莫大な富の獲得に動いたことなどが、歴史的な事実として存在したのは間違いなさそうです。

本殿を拝むと、さらに後ろにある神功皇后陵が眠る場所を祈るような位置にあります。

新羅の降伏と百済・高句麗の帰順

山陵八幡神社からすこし北にある神功皇后陵へ。

古事記・日本書紀の記述(=日本側の歴史)では、皇后の軍勢が朝鮮半島に到着すると、その威容と神の力に恐れをなした新羅王がいち早く降伏を申し出、さらに高句麗と百済も戦わずにヤマト朝廷へ帰順を誓った、と伝わっています。

記紀は日本の正史ですから、神功皇后と武内宿禰ひきいるヤマト朝廷が三韓(新羅・百済・高句麗)の征伐に成功した!が公式な主張になる訳ですね。

…その一方で、高句麗側からの視点では少し結果が異なります。

三韓のひとつである高句麗王が建てた『広開土王碑(西暦414年10月28日)』に記された記述には、

「391年以降、倭が海を渡って百済や新羅を破った」

とあります。つまりヤマト朝廷が朝鮮半島を戦場として新羅・百済との間で争った事実はあったようです。しかし、高句麗は最終的に倭を打ち破ったとしています(=すなわち服従はしていない)。

当時、漢による朝鮮半島の直接支配を終わらせた高句麗は、新羅とは比較的友好な関係を築き、百済は配下に治めていたとされる、朝鮮半島北部に領土を持つ強大な国家でした。 ※ちなみに言うと民族的にはツングース系(満州族系・朝鮮族系)の騎馬民族とされます。

拝所へむかう道は綺麗に舗装されていました。独特の雰囲気

また少し時代を下った「倭の五王」の時代にも、当時の倭王:武が478年に順帝に宛てて送った「倭王武の上表文」には以下のような記述があります。 ※ちなみに当サイトでは倭王:武を雄略天皇だと考察しています。

【参考記事】第21代:雄略天皇 〜国内を平定し大陸に武を示した「ワカタケ」の覇道

高句麗は道理をわきまえず、周囲を併呑することを望み、辺境を侵略し人々を殺し続けています。そのため常に宋への朝貢が遅滞し、赴くための機会を失ってしまいました。使節が道を進んでも通じることもあれば通じないこともありました。

亡父の済(允恭天皇)は、高句麗が宋への通路をふさいだことを怒り、弓兵百万はその正義に感激し、まさに大挙して攻撃しようとしていました。

しかし、にわかに父兄(允恭天王と安康天皇)が亡くなり、後少しでそれを成し遂げるところを達成できておりません

空しく服喪しており、軍を動かさずにおります。そのため軍を止めており、高句麗を破ることを果たせておりません。 いままで兵を訓練しており、父兄の志を実現したいところです。

太字のところを読んで頂くとわかりますが、つまりは中国大陸の先進的な国であった宋に対し、高句麗征伐の正当性を認可してもらおうとしている訳ですね。

ここからはは筆者の解釈ですが、これらの情報を統合すると いわゆる”三韓征伐”とされる歴史イベントは「新羅と百済は帰順させたが、高句麗には苦戦した。むしろ高句麗との戦は劣勢であった」のではないかと思われます。先述したように高句麗は騎馬民族ですが、当時の日本はまだ歩兵を中心する軍隊だったと思われるからです。

 

考察:神功皇后はなぜ朝鮮半島へ進出したのか?

鳥居近くの石碑。祭神はオキナガタラシヒメ(神功皇后)、ホムタワケ(応神天皇)と玉依姫(神武天皇の母)です。

ここからは東出雲王家の末裔:富家に伝わる富家伝承(出雲口伝)をご紹介しつつ、神功皇后の三韓征伐について考察してみましょう。

富家伝承では、気長足姫尊(神功皇后)は、新羅王家の遺産を相続するために新羅を征伐した、と伝わっているようです。

というのも、冒頭でご紹介したように神功皇后は新羅の前身である 辰韓の王子(天日矛)の血を引く人物でした。

356年に辰韓の王家が断絶し、家来たちが新たに新羅を興します。しかし当時の価値観では、領土や人民は王家の個人財産とされていました。

息長帯姫は、天日槍の直系子孫(=つまり旧王家の正統な相続人)だとし、新羅の国(財産)の半分は、血を引く自分に相続権・分与権がある!と主張。それを認めさせるために軍を率いて海を渡った…ということだそうです。

ちなみに…富家伝承には高句麗との争いについても伝承が残っており、以下のように伝わっているようです。

ヤマトの物部勢や葛城襲津彦(武内襲津彦)らが率いる倭国の連合軍は、百済・任那を助けるために半島を北上したが、そこで激突した高句麗の「鉄甲騎馬軍団」に完膚なきまでに叩きのめされる。 ※当時の日本列島の軍隊は、まだ歩兵が中心でした。

高句麗は人馬ともに鉄の鎧で固め、当時としてはアジア最強の重装騎馬兵を擁していました。広大な平原で騎馬軍団に突撃された倭国軍は、戦術・武器の質ともに歯が立たず、多くの将兵が命を落とした。とのこと。

私の考察…意外と良い線いっていたのかも…!?

 

神功皇后が活躍した時代の時代背景

彼女が生きたのは4世紀頃だと思われますが、一部の歴史家の中で「神功皇后こそが卑弥呼、あるいはその後継者の台与(トヨ)ではないか」という学説も議論されています。

当サイトの考察としては卑弥呼は孝元天皇の妹であるヤマトトトヒモモソヒメ、後継者の台与はトヨタマヒメだ、と思っているのですが、神功皇后=ヒミコ説をはじめとして古代史には膨大な学説があり、さまざまな仮説が建てられるのが面白いところでもあります。

神功皇后が眠る狭城盾列池上陵(五社神古墳)は、奈良市の北部にある佐紀盾列古墳群のひとつ。

周囲には巨大な古墳が並びますが、その中でも最も大きな前方後円墳です。

 

神話と歴史の境界線に立つ神功皇后───。

彼女の物語は、単なる昔話や神話のたぐいではなく、困難に立ち向かう日本人の原動力として、そして偉大な母として長く語り継がれてきたのでした。

 

神功皇后陵の基本情報

項 目 名 内 容
本   名 気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)
御   父 息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)
御   母 葛城高額比売(かずらきのたかぬかひめ)
御 陵 名 狭城盾列池上陵(さきたたなみのいけがみの みささぎ)
陵   形 前方後円墳
所 在 地 奈良県奈良市山陵町
交通機関等 近鉄京都線「平城駅」下車、徒歩約15分

 

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