「みささぎめぐり」へようこそ。日本の歴史を形作ってきた歴代天皇の足跡を辿る旅。
今回は、第11代:垂仁天皇(すいにんてんのう)にスポットを当てます。
先代の崇神天皇が築き上げたとされる国家の枠組みを引き継ぎ、精神的な柱となる祭祀の確立と、さらなる領土の安定化を推し進めた時代です。
垂仁天皇の人物像・エピソード

近鉄:尼ヶ辻駅から拝殿へ向かう途中。拝殿を西側から撮影しました。
垂仁天皇は、記紀において活目入彦五十狭茅尊(いくめいりひこいさちのみこと)という名で記録されています。
彼の人物像を語る上で外せないのが、最初の后・狭穂姫(さほひめ)を巡るあまりにも切ない政変劇です。
狭穂姫の兄である狭穂彦が天下を奪おうと企み、妹に「天皇を暗殺せよ」と紐小刀を渡します。しかし、夫である垂仁天皇を深く愛していた狭穂姫は葛藤の末に涙を流し、計画を天皇に告白してしまいました。
天皇はすぐさま軍を派遣して狭穂彦を追い詰めますが、狭穂姫は兄への情を断ち切れず、兄の籠る燃え盛る城へと飛び込んでしまいます。彼女は城の中から、垂仁天皇との間に生まれたばかりの皇子(誉津別命)を託し、自らは炎の中に消えていきました。垂仁天皇は彼女を救おうと必死に手を尽くしたものの叶わず、残された皇子を生涯深く愛し続けました。このエピソードから、垂仁天皇が非常に情に厚く、誠実で優しい心の持ち主であったことが窺えます。
また、力自慢の当麻蹴速(たいまのけはや)を打ち破るために出雲から野見宿禰(のみのすくね)を召し寄せ、日本最古の「天覧相撲」を行わせたことでも有名です。
殉葬を廃して埴輪を創し、神霊を伊勢に鎮める

垂仁天皇の成し遂げた最大の功績の一つは、古代の残酷な習俗であった「殉葬(じゅんそう)」の禁止と、それに代わる「埴輪(はにわ)」の創始です。
それまでの時代は、大王や有力な豪族が亡くなった際、その近親者や従者を古墳の周囲に生き埋めにする悪習が存在していました。垂仁天皇はこの光景を深く悲しみ、人命を損なうことのない新たな弔いの方法を模索しました。
そこで、出雲国から召し出されていた野見宿禰が、人間の代わりに土で作った人や馬、器物の形をした人形を古墳に立てることを提案しました。
天皇はこの進言を大変喜び、これを即座に採用しました。これが日本における埴輪の起源であり、以降、殉葬の悪習は途絶えることとなりました。この功績により、野見宿禰の一族は「土師氏(はじうじ)」の姓を賜り、後の古墳造営や葬送儀礼を司る重要な役割を担うことになります。
伊勢神宮の創建
もう一つの国家的な大業は、天照大神の永遠の鎮座地を定めた伊勢神宮の創建でしょう。
それまで宮中や大和国の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀られていた天照大神の神霊は、よりふさわしい清浄な地を求めて移動することとなりました。垂仁天皇は、皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)にこの大役を託しました。
倭姫命は神霊を奉じて各地を巡行した末、伊勢の国へと辿り着き、この地に社を建てました。
これが現在の伊勢神宮の創建であり、垂仁天皇の治世において、日本の国家祭祀の絶対的な基盤が確立されたのです。
なお、その前段階として豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)が笠縫邑で奉斎していた歴史も、この重要な神事の背景として語られています。
富家伝承が語る垂仁天皇

垂仁天皇の時代を巡る富家伝承(出雲口伝)では、後世の中国の史書である『魏志倭人伝』に登場する高名な倭国の使者「難升米(なんしょうまい)」の正体は、実は但馬国や常世の国への交渉を担った田道間守(タジマモリ)の聞き間違い、あるいは略記であったと伝わっているようです。
さらに、その副使として記録されている「都市牛利(としぎゅうり)」は、垂仁天皇の側近としてヤマト政権の軍事や財政を支えた物部氏の祖・十千根(とおちね)を指しているとのこと。
中国の役人が「十千根(トチネ)」という音を聞き取り、それを書面にする際、草書体で書かれた「子」の文字を、その形状が酷似していた「牛」という漢字に見誤って「牛利」と書き写してしまった
垂仁天皇治世の時代背景と周辺エピソード

垂仁天皇の治世における最大の文化的・宗教的トピックとしては、やはり先述した、伊勢神宮(三重県伊勢市)の創建が挙げられます。
大王は、それまで宮廷内で大王と同居していた皇祖神・天照大神(あまてらすおおみかみ)の永遠の鎮座地を求め、最愛の皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)に神託を託して旅に出させました。
倭姫命は美濃や近江など列島各地を巡った末に、神の声を聴き、現在の伊勢の地に壮麗な社殿を建てました。これが、日本の信仰の最高峰である伊勢神宮の始まりであり、垂仁天皇の治世がいかに精神的・文化的な安定をもたらしたかを象徴する出来事です。
現在、垂仁天皇が静かに眠るゆかりの地である「菅原伏見東陵(奈良県奈良市)」を訪れると、そこには周囲を青々と湛えられた美しい水濠に囲まれた、巨大な前方後円墳が姿を現します。
そして大変に風情があることに、その広大な濠の南東の端には、主君の死を悼んで命を落とした田道間守の墓とされる、緑豊かな小さな島(橘の島)が今もひっそりと浮かんでいます。主従が千何百年の時を超えて、今なお寄り添うように佇むその景観は、訪れる人々の感動を誘う名所となっています。
垂仁天皇と関連氏族・敵対勢力

垂仁天皇を支えたのは、血縁を中心とした強力な氏族たちでした。
特にサホヒメ奪還で活躍した彦八綱田命の子孫は、後に毛野君(けぬのきみ)や佐伯氏として知られるようになり、東国の支配を任される有力な氏族へと成長しました。
これら東国支配を担った氏族の源流が、垂仁天皇を支えた側近たちにあることは注目に値します。
一方、敵対勢力としては内部の叛乱分子であるサホヒコなどが挙げられますが、これらを鎮圧することで王権の正統性を確固たるものにしました。

田道間守命御塚拝所。私が伺った時は草木がモリモリ、タジマモリでした。は?
また、かつての敵対勢力の土地であった場所にも、天照大神や大国玉神といった「大和の神々」を祀ることで、かつての敵を精神的な支配下に取り込んでいったと考えられます。
このように、垂仁天皇は反対勢力の制圧と、協力者への適切な権限付与という巧みな政治バランスによって、次代の景行天皇によるさらなる領土拡大への道を拓いたのです。
垂仁天皇の物語は、日本という国が「神の威光」を背に、より広大な土地へとその足跡を伸ばしていった時代の記録です。彼が築いた祭祀の伝統は、今も伊勢の森や各地の神社の中に息づいています。
垂仁天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 垂仁天皇 |
| 本 名 | 活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと) |
| 御 父 | 崇神天皇(すじんてんのう) |
| 御 母 | 御間城姫(みまきひめ) |
| 御 陵 名 | 菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ) |
| 陵 形 | 前方後円墳 |
| 所 在 地 | 奈良県奈良市尼辻西町 |
| 交通機関等 | 尼ヶ辻駅から徒歩約8分 |
| 御在位期間 | 前29年~後70年 |
垂仁天皇が眠る菅原伏見東陵(宝来山古墳)は、全長約227メートルの美しい前方後円墳です。
この御陵の最大の見どころは、幅広の美しい周濠(お堀)の南側に、ポツンと浮かぶ小さな緑の島(陪塚)があることです。
実はこの島こそが、天皇のために橘を持ち帰り、間に合わずに命を落とした忠臣・田道間守の墓と伝えられています。
主君のすぐ傍らで、今もお守りするようにひっそりと浮かぶその姿は、訪れる人々に古代の切ない人間ドラマを静かに伝えているかのようですね。
