第11代:垂仁天皇 〜殉葬を廃して埴輪を創し、伊勢に神霊を鎮めた帝

初代-25代

ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。

今回は、太古の風が吹き抜ける大和の地で、殉死の悲劇を廃して埴輪の慈悲をもたらし、伊勢の神宮の礎を築いた第11代:垂仁天皇(すいにんてんのう)の御生涯をご紹介します。

愛する妻と反逆の兄の間で揺れた切ない伝承や、不老不死の果実を求めた壮大な物語など、古代の情念と国家改革の足跡を、ともに辿ってみましょう。

垂仁天皇の人物像・エピソード

近鉄:尼ヶ辻駅から拝殿へ向かう途中。拝殿を西側から撮影しました。

垂仁天皇は、活目入彦五十狭茅尊(いくめいりひこいさちのみこと)と名付けられ、父は第10代:崇神天皇、母は大彦命(孝元天皇の長男)の娘である御間城姫との間に生まれました。

先代である崇神天皇の跡を継いで即位した垂仁天皇は、慈悲深く思慮に富み、伝統的な因習を改めながら国家の平和と民の負担軽減に配慮した君主として描かれています。

 

狭穂姫・狭穂彦とのエピソード

彼の人物像を語る上で外せないのが、最初の后・狭穂姫(さほひめ)を巡るあまりにも切ない政変劇です。

狭穂姫の兄である狭穂彦が天下を奪おうと企み、妹に「天皇を暗殺せよ」と紐小刀を渡します。しかし、夫である垂仁天皇を深く愛していた狭穂姫は葛藤の末に涙を流し、計画を天皇に告白してしまいました。

天皇はすぐさま軍を派遣して狭穂彦を追い詰めますが、狭穂姫は兄への情を断ち切れず、兄の籠る燃え盛る城へと飛び込んでしまいます。

彼女は城の中から、垂仁天皇との間に生まれたばかりの皇子(誉津別命)を託し、自らは炎の中に消えていきました。

垂仁天皇は彼女を救おうと必死に手を尽くしたものの叶わず、残された皇子を生涯深く愛し続けました。このエピソードから、垂仁天皇が非常に情に厚く、誠実で優しい心の持ち主であったことが窺えます。

 

殉葬の廃止と伊勢神宮(皇大神宮)の創建

堀と池に囲まれた参道を通ります。宝来山古墳の名の通り、海の奥にあるとされる蓬莱を目指す道を模したのでしょうか

垂仁天皇の功績として有名なものは、殉葬(じゅんそう)の禁止と、それに代わる埴輪(はにわ)の創始、そして何より伊勢神宮の創建が挙げられます。

 

殉葬の禁止と埴輪の創始

当時、大王や皇族が崩御した際には、近習や側近が生きたまま陵墓の周囲に埋められる過酷な殉死の風習が存在し、一部の豪族勢力からは反感を買っていたと思われます。

皇兄である倭彦命が崩御した際、埋められた人々が数日間にわたって泣き叫びながら死んでいく惨状を耳にした垂仁天皇は心を痛め、愛する者を生きたまま埋めるような過酷な行いを二度と行ってはならないと命じたとされます。

このとき、出雲国から召し出された野見宿禰(のみのすくね)が、生きている人間の代わりに土で作った人や馬の形(土偶・埴輪)を陵墓へ立てる案を提案。

垂仁天皇はこの提案を大変喜び、殉死を永久に禁止して埴輪を納める新しい礼法を定めます。これが日本における埴輪の起源であり、以降、殉葬の悪習は途絶えることとなったのでした。

この功績により、野見宿禰の一族は土師氏(はじうじ)の姓を賜り、古墳造営や葬送儀礼を司る重要な役割を担うことになります。

ちなみに野見宿禰は、当麻蹴速(たいまのけはや)という力自慢の男と角力を執り、野見宿禰が勝利したことで蹴速が持っていた大和国・当麻の地(奈良県葛城市)を与えられた、という伝説が残っています。
※一説にはこれが相撲のルーツとされます。

 

太陽神:天照大御神が鎮座する伊勢神宮の創建

もう一つの国家的な大業は、天照大神の永遠の鎮座地を定めた伊勢神宮(皇大神宮)の創建でしょう。

それまで宮中や大和国の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀られていた天照大神の神霊は、よりふさわしい清浄な地を求めて移動することとなりました。

垂仁天皇は、皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)にこの大役を託すと、倭姫命は神霊を奉じて各地を巡行した末、伊勢の国へと辿り着き、この地に社を建てました。

これが現在の伊勢神宮の創建(内宮)であり、日本の国家祭祀の絶対的な基盤が確立されたのです。

なお、その前段階として豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)が笠縫邑で奉斎していた歴史も、この重要な神事の背景として語られています。

※ちなみに…外宮が建立されたのは、時代が下って雄略天皇の時代とされています。
【関連記事】第21代:雄略天皇 〜伊勢の外宮を建立し、国内平定への覇道を突き進んだ和王:武

 

東出雲王家の末裔に伝わる “富家伝承”のエピソード

垂仁天皇の時代を巡っては、東出雲王家の末裔に伝わる富家伝承(出雲口伝)にも興味深い話があります。

『魏書』によると、243年(正始4年)に宇佐豊玉姫が中国の魏へ遣わした使節の中に伊声者(いさち)という人物が存在したと記されています。

この謎の人物:伊声者とは、古事記等に記された伊佐知(イサチ / 活目入彦五十狭茅尊)即ちイクメ王(垂仁天皇)自身の別名であり、お忍びの姿であったと伝わっているようです。

大王に就任する予定の最高位の人物が自ら外国へ渡航することは立場上はばかられたため、魏へ赴くにあたって本名を隠して別名を名乗り、使節の頭となって自ら外交の第一線に立ったとされています。

イクメ王がこのような危険を冒してまで魏へ渡った目的は、親魏和王としての印綬や政治的威厳を獲得し、国内の王権基盤を盤石にすることにありました。

 

垂仁天皇治世の時代背景と周辺エピソード

垂仁天皇の治世における最大の文化的・宗教的トピックとしては、やはり先述した伊勢神宮(三重県伊勢市)の創建が挙げられます。

大王は、それまで宮廷内で大王と同居していた皇祖神・天照大神(あまてらすおおみかみ)の永遠の鎮座地を求め、最愛の皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)に神託を託して旅に出させました。

倭姫命は美濃や近江など列島各地を巡った末に、神の声を聴き、現在の伊勢の地に壮麗な社殿を建てました。これが、日本の信仰の最高峰である伊勢神宮の始まりであり、垂仁天皇の治世がいかに精神的・文化的な安定をもたらしたかを象徴する出来事です。

 

記紀で描かれる忠臣・田道間守(たじまもり)

食生活においては、彼が田道間守に常世の国から探し求めさせた非時香菓(ときじくのかくのこのみ)に関するエピソードがあります。
※「時を選ばずにいつでも黄金に輝き、香りを放つ木の実」という意味で橘=の原型と考えられています。

垂仁天皇は不老長寿の霊薬としてこの果実を求め、田道間守をはるか彼方の常世の国へと派遣すると、田道間守は荒波を越え、10年もの歳月を費やしてついに非時香菓を持ち帰ります。

しかし彼が日本に戻ったとき、垂仁天皇はすでに崩御していました。田道間守は悲しみのあまり、天皇の御陵(みささぎ)の前で泣き叫び、そのまま息を引き取ったと伝えられています。

写真中央の小さな島が「橘の島」です

現在、垂仁天皇が静かに眠る菅原伏見東陵(奈良県奈良市)を訪れると、そこには周囲を青々と湛えられた美しい水濠に囲まれた、巨大な前方後円墳が姿を現します。

ちなみに、その広大な濠の南東の端には、主君の死を悼んで命を落とした田道間守の墓とされる、緑豊かな小さな島(橘の島)が今もひっそりと浮かんでいます。

主従が千何百年の時を超えて、今なお寄り添うように佇むその景観は、訪れる人々の感動を誘う名所となっています。

 

垂仁天皇と関連氏族・敵対勢力

垂仁天皇を取り巻く人間関係は、父から受け継いだ王権の威光、愛と憎しみの狭間で引き裂かれた最初の皇后、王権の制度化を支えた忠臣たちによって形作られていました。

狭穂姫との悲恋、後妻となった日葉酢媛

最初の皇后として迎え入れたのが、沙本毘古(狭穂彦)の妹である狭穂姫(さほひめ)でした。

前述の通り、彼女は兄の反乱に巻き込まれて命を落としましたが、彼女の遺言に従い、天皇は丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)の娘である日葉酢媛(ひばすひめ)を後妻(第二の皇后)として迎えました。

日葉酢媛との間には、後に第12代・景行天皇となる大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと)や、倭姫命らが誕生いたしました。

 

野見宿禰に土師臣の姓を与える

朝廷の中枢を支えたのが、相撲の勝者であり埴輪を考案した野見宿禰です。

彼はこの功績によって 土師臣の姓を賜り、後の時代に天皇の葬儀や古墳の築造を司る土師氏(はじし)の祖となります。

ちなみに土師氏は、学問の神様・菅原道真を輩出する菅原氏、鎌倉幕府創設に多大な貢献を果たす大江広元や中国地方の覇者となる毛利元就らの祖となるのでした。

 

垂仁天皇陵の基本情報

項 目 名 内 容
天 皇 名 垂仁天皇
本   名 活目入彦五十狭茅尊(いくめいりひこいさちのみこと)
御   父 崇神天皇(すじんてんのう)
御   母 御間城姫(みまきひめ)
御 陵 名 菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)
陵   形 前方後円墳
所 在 地 奈良県奈良市尼辻西町
交通機関等 尼ヶ辻駅から徒歩約8分
御在位期間 前29年~後70年

垂仁天皇が眠る菅原伏見東陵(宝来山古墳)は、全長約227メートルの美しい前方後円墳です。

先述したように、幅広の美しい周濠(お堀)の南側に、ポツンと浮かぶ小さな緑の島(陪塚)があるのですが、実はこの島こそが、天皇のために橘を持ち帰り、間に合わずに命を落とした忠臣・田道間守の墓と伝えられています。

主君のすぐ傍らで、今もお守りするようにひっそりと浮かぶその姿は、訪れる人々に古代の切ない人間ドラマを静かに伝えているかのようですね。

田道間守命御塚拝所。私が伺った時は草木がモリモリ、タジマモリでした。は?

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