「みささぎめぐり」へようこそ。歴代天皇の足跡を辿る旅。
今回は、日本の歴史上初めて一度退位したのちに再び皇位に就く「重祚(ちょうそ)」という劇的な道を選んだ稀代の女帝、第35代:皇極天皇(のちの第37代:齊明天皇)の足跡に迫ります。
大化の改新という未曾有の権力闘争と、緊迫する東アジア情勢のうねりの中で、彼女はいかにして国を導き、何を背負ったのでしょうか。古代日本が国家としての形を成していく過渡期に君臨した、その波乱万丈な生涯を紐解いていきましょう。
皇極天皇(齊明天皇)の人物像・エピソード
飛鳥の宮に君臨したこの偉大なる女帝の本名は「宝女王(たからのひめみこ)」と言います。
「皇極(こうぎょく)」という諡号(お名前)は「天皇という存在を極めた」とも読める非常に力強く立派な文字が当てられていますが、実は彼女が天皇の座に就いた背景には、当時の王権をめぐる「訳あり」で複雑な政治的事情が絡み合っていました。
彼女はもともと第34代・舒明天皇の皇后であり、のちに歴史を大きく動かすことになる中大兄皇子(ちゅうのおおえのみこ/のちの天智天皇)と、大海人皇子(おおあまのみこ/のちの天武天皇)という二人の傑物たちの母でもありました。
夫である舒明天皇が崩御した際、次期天皇の座を巡って有力な皇位継承者たちが対立し、国が真っ二つに割れかねない危機に直面しました。
そこで、争いを避けるための「中継ぎ」として、血筋も良く、母としての威厳を備えていた宝女王が即位することになったのです。
彼女の並外れた精神力とカリスマ性を示す有名なエピソードに「雨乞い」があります。日本書紀によれば、深刻な大干魃に見舞われた際、当時の最高権力者であった蘇我蝦夷や高名な僧侶たちが祈祷を行っても一滴の雨も降りませんでした。しかし、皇極天皇が自ら神前に立ち、天に向かって祈りを捧げたところ、たちまち大雨が降り注ぎ、五穀豊穣をもたらしたと伝えられています。彼女は古代の天皇に求められた「神と交信する力(霊的権威)」を極めて高いレベルで保持していたのです。
その後、彼女の目の前で蘇我入鹿が暗殺されるという凄惨なクーデター(乙巳の変)が勃発します。血塗られた惨劇に衝撃を受けた彼女は、同母弟の孝徳天皇に皇位を譲り、日本史上初となる「生前退位(譲位)」を行いました。しかし物語はこれで終わりません。孝徳天皇が崩御した後、再び国家のリーダーとしての役割を求められた彼女は、再び玉座へと戻る「重祚(ちょうそ)」を果たし、第37代「斉明天皇」として二度目の治世をスタートさせたのです。
北の平定と、未曾有の国家防衛・巨大土木事業
斉明天皇として二度目の即位を果たした彼女の治世は、非常にダイナミックな外征と、国内の巨大プロジェクトに彩られています。
特筆すべき最大の功績の一つは、未知の領域であった東国や北の果てへと積極的に遠征軍を派遣し、ヤマト王権の支配領域を劇的に拡大させたことです。
658年、女帝は名将・阿倍比羅夫(あべのひらふ)を東北地方へと派遣し、蝦夷(えみし)の勢力を見事に平定させました。さらにその2年後の660年には、阿倍比羅夫の軍船は海を渡ってさらに北上し、なんと現在の北海道にまで到達して「粛慎(みしはせ)」と呼ばれる異民族を討伐したと記録されています。
この水陸両面からの大規模な北征により、日本の輪郭は大きく北へと広がることになりました。
また、国内においては「土木事業の女帝」としての異名をほしいままにしました。
飛鳥の地に、巨大な石垣を築き、水を引き込むための大規模な運河(狂心渠:たぶれごころの溝)を掘らせるなど、常軌を逸したスケールの公共工事を次々と敢行したのです。民衆からは「狂気の沙汰だ」と批判されることもありましたが、これは単なる道楽ではありませんでした。
緊迫する東アジア情勢の中にあって、ヤマト王権が強大な権力と富を持つ文明国であることを、海を渡ってやってくる外国の使節団に見せつけるための、命がけの「国家の威信表明」だったのです。
皇極天皇(齊明天皇)治世の時代背景
彼女が二度目の治世を送った時代は、「大化の改新」と呼ばれる国家改造プロジェクトが急ピッチで進められていた、日本古代史における最大の転換期でした。
この激動の時代の政治システムは、現代の私たちが想像しやすい形に例えることができます。名目上の最高権力者として斉明女帝が君臨していましたが、実質的に政治の実権を力強く握り、改革を推し進めていたのは皇太子である中大兄皇子でした。そして、その兄を献身的に補佐し、実務を支えていたのが弟の大海人皇子という強固な兄弟体制が築かれていました。
政府の首脳陣に目を向けると、現在の「内閣総理大臣」にあたる左大臣のポジションには、名門・武内宿禰の系譜を引く巨勢徳太(こせのとこた)が就いており、一方で、現在の「内閣官房長官」のように天皇や皇太子の側近として辣腕を振るっていたのが、中臣鎌足(のちの藤原鎌足)でした。
このように、非常に強力でシステマチックな布陣によって、新しい国家建設が進められていたのです。
しかし660年、海を隔てた朝鮮半島で、日本の長年の同盟国であった「百済(くだら)」が、唐と新羅の連合軍によって滅亡させられるという衝撃的な事件が勃発します。
この未曾有の国家危機に際し、斉明天皇は高齢であるにもかかわらず、百済復興の救援軍を自ら指揮するために、飛鳥を離れて九州の筑紫(現在の福岡県朝倉市)へと大本営を移すという壮絶な覚悟を見せました。
海を渡る兵士たちを鼓舞し、自ら前線に立った女帝でしたが、不運にも出兵を前にして朝倉の宮で病に倒れ、無念のままこの世を去ることになります。
皇極天皇(斉明天皇)と関連氏族・敵対勢力との関係性
皇極・斉明天皇の生涯は、周囲を取り巻く強大な氏族たちとの息詰まる暗闘と、身内である家族内の複雑な感情の糸に翻弄され続けた日々でもありました。
最初の皇極天皇としての治世では、宮廷内で絶大な権力を誇っていた蘇我氏(蘇我蝦夷・入鹿の親子)との関係性が最大の焦点でした。
彼女自身は蘇我氏の血を色濃く引いていたものの、王権を凌駕しようとする蘇我本流の専横は目に余るものがありました。その結末として、彼女の御前という最も神聖な空間で、我が子である中大兄皇子らによって蘇我入鹿が斬り殺されるという最悪の悲劇を目の当たりにすることになります。
さらに、二度目の治世(斉明天皇時代)を支えた二人の優秀な息子たちの間にも、のちに国を二分する対立の火種が、すでにこの時代から静かに燻り始めていました。百済が滅亡した際、実権を握る中大兄皇子は、かつての家庭教師の影響や側近たちとの関係性もあり、同盟国であった百済に対して極めて強い思い入れを持っていました。
その一方で、弟の大海人皇子は、唐や新羅(白村)といった大陸の勝者側の勢力とも比較的良好なパイプを持ち、冷静な関係性を築いていたとされています。
この「百済派(兄)」と「新羅・親唐派(弟)」という外交方針の微妙なズレと感情のすれ違いは、斉明天皇の崩御後、やがて日本古代史最大のパニックである「壬申の乱」へと発展していく運命にあったのです。女帝は、有能すぎる息子たちが抱えるこの亀裂を、生涯の最後まで憂い続けていたのかもしれません。
皇極天皇(齊明)陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 皇極天皇(こうぎょくてんのう) ※のち齊明天皇(さいめいてんのう) |
| 本 名 | 豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと) |
| 御 父 | 欽明天皇(きんめいてんのう) |
| 御 母 | 吉備姫王(きびひめのみこ) |
| 御 陵 名 | 越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ) |
| 陵 形 | 円丘 |
| 所 在 地 | 奈良県高市郡高取町大字車木 |
| 交通機関等 | JR 掖上駅から徒歩約13分 |
| 御在位期間 | 642年~645年(皇極)、655年~661年(齊明) |
