ようこそ、みささぎめぐりへ───。日本の歴史を形作ってきた歴代天皇の足跡を辿る旅。
今回は、わずか1年10ヶ月という極めて短い在位期間でありながら、古代日本の宗教観と国家のあり方を大きく旋回させた第31代:用明天皇(ようめいてんのう)の御生涯をご紹介します。
用明天皇の人物像・エピソード
用明天皇の本名は橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)と名付けられています。
欽明天皇の第4皇子として誕生し、母は大臣として朝廷の財政と外政を主導した蘇我稲目(そがのいなめ)の女である蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)。
皇室家と蘇我氏の血を引く、いわゆるサラブレッドな血統であり、同母妹には推古天皇(額田部皇女)がいました。
神道を尊び、仏法を信受した用明帝
『日本書紀』に記された彼の人となりは、神道(かむながらの道)を尊び、同時に仏法を信受したと描写されています。
それまでの大王たちは日本古来の神々への祭祀を国家の唯一の柱としていたのに対し、用明天皇は皇室の歴史上初めて自らの意思で仏法に帰依した天皇として記録されています。
その性品は優しく穏やかであり、争いごとよりも対話や和解を重んじる寛容な性格であったと伝えられます。
しかし、その穏やかな人となりとは裏腹に、彼の即位と在位期間は、朝廷内部の血塗られた陰謀と凄惨な権力闘争に常に晒されていました。
585年、異母兄である敏達天皇が激しい疫病によって崩御すると、用明天皇が帝位に就きますが、在位わずか1年余りが経過した587年4月、用明天皇自身も酷い瘡病(天然痘と推測される病)に倒れることとなりました。
病床に伏した用明天皇は、群臣に対して
「予、仏法に帰依せんと欲す。卿ら議せよ(自分は仏の教えに救いを求めたいと思う。そなたたちはこれを議論せよ)」
と奏上しました。
天皇自らが、公の場で仏教への帰依を表明したこの決断は、朝廷内に存した崇仏派と排仏派の対立を暴発させる決定的な引き金となり、崩御直後の凄惨な兵乱へと波及していくこととなるのでした。
皇室初の仏法帰依、聖徳太子の父としての足跡
用明天皇の歴史的功績は、先述の通り皇室として初めて仏法帰依を表明し、国家の宗教的転換点を創出したこと。そして後の飛鳥文化の黄金期を築く聖徳太子(厩戸皇子)の父として、その思想的・血統的土台を形成した点にあります。
皇室家で初めての仏法へ帰依
国家の最高統治者として自ら仏教を受容する意思を明確にし、排仏令によって抑圧されていた仏教文化の公認へ道を拓いた点でしょう。
父・欽明天皇の時代に百済から公伝した仏教は、前代の敏達天皇期における酷い疫病の発生に伴い、物部守屋ら排仏派の手によって仏像が難波の堀江へ投げ捨てられ、寺院が放火されるなどの激しい弾圧を受けていました。
用明天皇は、自らの重病という極限の状況下にあって、伝統的な神事への配慮を怠らない姿勢を保ちつつも、「仏法を信受する」という意思を公に宣言しました。
大王自らが仏の救いを求めたこの事跡により、それまで異国の神として排除されかけていた仏教が、ヤマト王権の精神的支柱として正式に位置づけられる決定的な転換点を迎えることとなりました。
日本仏教の基礎を築いた聖徳太子の父
聖徳太子(厩戸皇子)の誕生と養育における決定的環境の提供であります。
用明天皇は、皇后である穴穂部間人皇女との間に、第一皇子として厩戸皇子(聖徳太子)を授かっていました。
優れた知性と深い宗教的感性を備えた用明天皇の血脈と、宮中で神仏の教えに向き合う父親の姿勢は、幼少期の厩戸皇子に絶大な影響を与えたとされます。
病床にあった用明天皇による薬師仏の造立と寺院の建立という遺志は、用明天皇の崩御後に聖徳太子と推古天皇へと引き継がれ、後の法隆寺(斑鳩寺)の創建および薬師如来像の奉安へと結実していくことになります。
自らの治世はわずか2年足らずで幕を閉じましたが、用明天皇が遺した宗教的・文化的な種子は、息子の聖徳太子によって飛鳥文化という大輪の華を咲かせることとなったのです。
用明天皇治世の時代背景・周辺エピソード
用明天皇の585年から587年という6世紀末は、仏教という当時の日本にとっては新興の宗教と、日本古来の神道(神々への祭祀)との間で、国家の精神的柱石を巡る対立が極点に達していた動乱期でした。
宗教思想は政治的な実態へと繋がり、朝廷の中枢において二大豪族が決定的な覇権争いを展開していました。
渡来系氏族と結びついて仏教の受容と中央集権化を推進する大臣・蘇我馬子(崇仏派)と、朝廷の軍事や神事を代々司り、自国の神々を護らんと主張する大連・物部守屋(排仏派)との間で、主導権を巡る激しい牽制と暗闘が続いていたのです。
“前方後円墳”から”方墳”へ変わる古墳の形
また、考古学的な観点における重要な足跡として、古墳の形の変化が挙げられます。
前代の敏達天皇までは伝統的な前方後円墳に葬られていましたが、用明天皇の崩御を境に、天皇陵の形は方墳(長方形や正方形の古墳)へと移行していくことになります。
方墳は、富家伝承(東出雲王家の末裔が語り継ぐ口伝、いわゆる「出雲口伝」)によると、四隅突出型墳丘墓がルーツになっているとされており、用明天皇と出雲との関係性は大いに考察の余地がありそうです。
用明天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性
用明天皇を取り巻く人間関係は、外戚である蘇我氏との強力な血縁的提携、最愛の皇后と聖徳太子との絆、ならびに朝廷の主導権を巡って猛烈に対立した物部氏や不気味な動向を見せた皇士たちによって多層的に形作られていました。
ともに母方から蘇我氏の血統を引く用明帝と皇后
冒頭でご紹介した通り父は欽明天皇、母は蘇我堅塩媛でした。また皇后には、異母妹にあたる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのおうじょ)を迎えました。
穴穂部間人皇女は欽明天皇と蘇我小姉君(堅塩媛の妹)との間に生まれた皇女であり、夫婦ともに父系からは皇室、母系からは蘇我氏の血を引き継いでいました。
二人の間には、長男の厩戸皇子(聖徳太子)、ならびに来目皇子、殖栗皇子、茨田皇子らが誕生します。用明天皇は、幼少期から特異な聡明さを見せていた厩戸皇子を深く愛し、自らの病床においても側に置いて深い信頼を寄せていたとされています。
大臣の蘇我馬子、大連の物部守屋
政権を足元から強力に支えたのが、伯父にあたる大臣の蘇我馬子(そがのうまこ)です。
蘇我馬子は、用明天皇の即位を全面的に後押しし、天皇が病床で仏法帰依を表明した際にも「大王の命に従い、公に仏法を祀るべきである」と強く主張して天皇の意志を代弁しました。
一方、側近でありながら仏法受容の方針で対立したのが、大連の物部守屋(もののべのもりや)です。
物部守屋は、用明天皇の仏法帰依の意向に対して「自国の神々を蔑ろにし、異国の神を祀れば再び国に祟りが生じる」と激怒して猛反発いたしました。守屋は兵を募って軍事的な圧力を加えるなど、朝廷内は一触即発の緊迫状態に陥りました。
さらに、皇室内部において不気味な脅威となったのが、用明天皇の異母弟にあたる穴穂部皇子(あなほべのおうじ)がいました。穴穂部皇子は物部守屋と密かに野合し、用明天皇が病床に伏すと次代の大王の座を狙って謀反の動きを強めました。
穴穂部皇子は、敏達天皇の皇后であった額田部皇女(後の推古天皇)の宮へ力づくで侵入しようとするなどの暴挙に及び、宮中を激震させました。
用明天皇の崩御が発端となった丁未の乱
587年4月9日、用明天皇が病のために崩御すると、抑え込まれていた権力の狂気が一気に爆発していくことになります。まず、蘇我馬子は即座に行動を起こし、暴走する穴穂部皇子を討伐・殺害。
続いて587年7月、蘇我馬子は厩戸皇子や諸皇子たちとともに大軍を率いて河内国の物部守屋の館を急襲し、激戦の末に物部守屋を討ち取りました(丁未の乱 / 物部守屋の変)。
用明天皇の崩御を契機として巻き起こったこの血塗られた武力衝突により、古代の超名門豪族であった物部氏本宗家は完全に滅亡することになりました。
用明天皇が下した「仏法帰依」という一言は、物部氏の滅亡と蘇我氏の圧倒的な独裁全盛期を引き寄せるという、凄惨かつ巨大な歴史のうねりを生み出すこととなったのです。
用明天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 用明天皇(ようめいてんのう) |
| 本 名 | 橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと) |
| 御 父 | 欽明天皇(きんめいてんのう) |
| 御 母 | 蘇我 堅塩媛 (そが の きたしひめ ) |
| 御 陵 名 | 河内磯長原陵(こうちのしながのはらのみささぎ) |
| 陵 形 | 方丘 |
| 所 在 地 | 大阪府南河内郡太子町大字春日 |
| 交通機関等 | (バス停) 用明天皇陵前から徒歩約5分 |
| 御在位期間 | 585年~587年 |
用明天皇は崩御後、当初は奈良の磐余池上陵(いわれのいけのへのみささぎ)に葬られましたが、後に現在の大阪府太子町にある河内磯長原陵へと改葬されました。
この地は、聖徳太子や推古天皇、敏達天皇、孝徳天皇の陵墓が集積する王陵の谷(磯長谷)の一角を成しています。
東西約65メートル、南北約60メートルを誇る巨大な方墳であり、その威風堂々とした方形のシルエットは、前方後円墳の時代に終止符を打ち、仏教という新たな光を迎えた日本の夜明けを今に伝えています。
















