ようこそ、みささぎめぐりへ───。日本の歴史を形作ってきた歴代天皇の足跡を辿る旅。
今回は、第31代:用明天皇(ようめいてんのう)をご紹介します。
用明天皇自身は歴史の表舞台で語られる機会は少ないものの、歴史に名を残す聖徳太子(厩戸皇子)の父として、また蘇我氏と物部氏の権力抗争が頂点に達した時代の王として、極めて重要な位置にあります。
用明天皇の人物像・エピソード

御陵に続く道は、地図でいう北側から入ります。南側からは入れず遠回りになるので注意。
用明天皇の本名は、橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)と言います 。この「橘(たちばな)」という名は、現代で言うミカンのような柑橘類を指しており、非常に清々しく豊かなイメージを湛えています。
『日本書紀』には、彼の高潔な人柄を表す言葉とともに「天皇、仏法を信(う)け、神道を尊びたまふ」という非常に有名な一節が記されています。
日本の伝統的な神々への信仰を大切にしながらも、渡来した仏教に対しても深い理解と信仰を寄せるという、柔軟で開かれた精神の持ち主でした。
また、彼の母親は蘇我稲目の娘(堅塩媛)であり、天皇自身が強力な「蘇我氏の血」を引いていました。そのため、前代の敏達天皇に比べると、より明確に仏教受容へと傾く心情を持っていた人物と言えます。
また用明天皇は、何よりも「聖徳太子(厩戸皇子)の父親」として歴史にその名を刻んでいます。
息子があまりにも有名であるため、彼自身の影は薄くなりがちですが、後の飛鳥文化を花開かせる聖徳太子の資質は、この用明天皇の血筋と、その時代背景から育まれたものと言えます。
仏法受容への舵取りと新時代への功績

用明天皇が成し遂げた最大の功績は、朝廷のトップとして「仏教の公認」へと大きく舵を切ったことです。
先代の敏達天皇までは、仏教に対して慎重、あるいは否定的な立場を取ることが多かったのに対し、用明天皇は崩御の直前、群臣に対して自らが仏教(三宝)に帰依する意思をはっきりと表明しました。
この宣言は、単なる個人の信仰告白にとどまらず、大和政権が国策として「仏教先進国」の道を歩むという国家方針の決定を意味していました。彼のこの英断があったからこそ、次代以降の飛鳥文化、そして聖徳太子による仏教を中心とした国づくり(十七条憲法など)の強固な土台が作られたのです。
“前方後円墳”から”方墳”へ
また、考古学的な観点における重要な足跡として、古墳の形の変化が挙げられます。
前代の敏達天皇までは伝統的な「前方後円墳」に葬られていましたが、用明天皇の崩御を境に、天皇陵の形は「方墳(長方形や正方形の古墳)」へと移行していくことになります。
方墳は、富家伝承(東出雲王家の末裔が語り継ぐ口伝、いわゆる「出雲口伝」)によると、四隅突出型墳丘墓がルーツになっているとされており、用明天皇と出雲との関係性は大いに考察の余地がありそうです。
用明天皇治世の時代背景と周辺エピソード

用明天皇が即位した585年頃は、前代からくすぶり続けていた崇仏派と排仏派の対立が、いよいよ臨界点を迎えて爆発寸前となっていた時代でした。
当時は再び疫病が猛威を振るっており、社会全体に不安と殺伐とした空気が広がっていました。人々が救いを求めるなか、先進的な仏教の力で国を護ろうとする動きと、疫病の原因を仏教のせいにし、伝統的な神々の祟りを恐れる動きが激しく衝突していました。

さらに、この宗教論争は「次の天皇を誰にするか」という皇位継承問題とも複雑に絡み合っていました。
用明天皇自身が病弱であったため、朝廷内では彼の即位直後から、すでに「次の時代」を見据えた血で血を洗う権力闘争の火種がパチパチと音を立てていたのです。
※地図で言うと北東から入る必要あり。西側の住宅地からは拝所まで辿り着けません。
用明天皇と関連氏族・敵対勢力

用明天皇の周囲では、蘇我氏と物部氏による主導権争いが、いよいよ最終局面を迎えていました。
【強力な後ろ盾・崇仏派】蘇我馬子
用明天皇にとって、大臣である蘇我馬子は母方の叔父にあたり、血縁的にも極めて近い存在でした。馬子は天皇の仏教への傾倒を全力でバックアップし、これを利用して政権内での蘇我氏の優位を決定づけようと動いていました。

【激しく対立・排仏派】物部守屋
大連の物部守屋は、用明天皇が仏教への帰依を表明した際、「なぜ我が国の神を無視して他国の神を拝むのか」と激怒し、真っ向から反対しました。守屋は天皇の意志に反旗を翻し、朝廷を退出するほどの強硬姿勢を見せました。

【不穏な影】穴穂部皇子(あなほべのおうじ)
用明天皇の異母弟であり、次の皇位を狙う野心家です。彼は物部守屋と密かに手を結び、用明天皇が病床に伏せると、天皇の崩御を待たずに宮中に乱入するなど、政権を揺るがす不穏な動きを見せました。
用明天皇が仏教への帰依を表明した直後、物部守屋と蘇我馬子は天皇の枕元で激しい口論を展開したと伝えられています。そして587年4月、天皇はその論争の決着を見届けることなく崩御します。
用明天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 用明天皇(ようめいてんのう) |
| 本 名 | 橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと) |
| 御 父 | 欽明天皇(きんめいてんのう) |
| 御 母 | 蘇我 堅塩媛 (そが の きたしひめ ) |
| 御 陵 名 | 河内磯長原陵(こうちのしながのはらのみささぎ) |
| 陵 形 | 方丘 |
| 所 在 地 | 大阪府南河内郡太子町大字春日 |
| 交通機関等 | (バス停) 用明天皇陵前から徒歩約5分 |
| 御在位期間 | 585年~587年 |
用明天皇は崩御後、当初は奈良の「磐余池上陵(いわれのいけのへのみささぎ)」に葬られましたが、後に現在の大阪府太子町にある河内磯長原陵へと改葬されました。
この地は、聖徳太子や推古天皇、敏達天皇、孝徳天皇の陵墓が集積する「王陵の谷(磯長谷)」の一角を成しています。
東西約65メートル、南北約60メートルを誇る巨大な方墳であり、その威風堂々とした方形のシルエットは、前方後円墳の時代に終止符を打ち、仏教という新たな光を迎えた日本の夜明けを今に伝えています。
