ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は、父を殺されて身分を隠し、播磨の地で牛馬の飼育に携わるという過酷な潜伏生活を耐え抜き、兄と皇位を譲り合ったエピソードを持つ第23代:顕宗天皇(けんぞうてんのう)の御生涯をご紹介します。
波乱に満ちた幼少期を経て即位し、父への深い孝義と民への温かな慈愛をもって政務に当たった帝の足跡を、ともに辿ってみましょう。
顕宗天皇の人物像・エピソード
顕宗天皇の本名は、弘計王(をけのおう)、または弘計尊と伝えられています。
父は第17代:履中天皇の皇子である市辺押磐皇子(いちのべのおしわののみこ)、母は母は武内宿禰一族でもある葛城蟻臣の娘・蠅媛(はやひめ)です。
弘計王の幼少期は、宮廷の激しい惨劇によって一変します。父である市辺押磐皇子が、皇位の独占を企てる雄略天皇によって狩猟の最中に不意に討たれる事件が発生しました。
身の危険を察知した幼い弘計王は、兄である億計王(おけのおう、後の第24代:仁賢天皇)とともに、従者の手引きによって秘かに都を脱出しました。
父:市辺押磐皇子の死と播磨国 志深での逃亡生活
二人の王子は丹波国を経由して播磨国(現在の兵庫県)の志深の地へと逃れ、その地の豪族の邸宅において身分を完全に隠し、牛馬の飼育や日雇いの雑用に携わるという、皇族としては類を見ない過酷な潜伏生活を長年にわたって余儀なくされました。
雄略天皇の崩御後、その皇子である清寧天皇の治世になると、歴史は劇的に動き始めました。播磨国に派遣された国司・山部連小針や、志深首の館を訪れた帯陣らの前で、宴の席での室屋の舞や歌を披露する機会がありました。
その際、弘計王は自らの高貴な出生と市辺押磐皇子の遺児であることを朗らかな和歌に乗せて表明しました。予期せぬ皇子の発見に驚喜した小針らは、直ちに中央の朝廷へ報告を送り、子を持たなかった清寧天皇は二人を都へと手厚く迎え入れました。
兄:億計王(のちの仁賢天皇)との皇位の譲り合い
都へ戻った兄弟の間で展開されたのが、皇位の譲り合いです。
兄の億計王は「名を発して皇位の糸口を開いたのは弟の功績である」として即位を勧め、弟の弘計王は「年長者である兄こそが即位すべきである」と主張して、互いに譲り合って譲りませんでした。
この間、二人の姉(あるいは叔母)にあたる飯豊青皇女が一時的に宮中で政務を執り、皇統の途絶を防ぎました。
最終的に、兄の強い意向を受けた弘計王が先に即位して第23代:顕宗天皇となり、兄の億計王を皇太子へと立てました。
朝政の平穏と父・市辺押磐皇子の復権による孝義の完遂
顕宗天皇の功績は、亡き父・市辺押磐皇子の遺骨の捜索と手厚い改葬を通じて子としての孝義を完遂したこと、そして過度な報復を抑えて朝政の平穏と民生の安定を図った点にあります。
父の遺骨を捜索し、手厚く改葬
即位した顕宗天皇にとって、最優先の悲願は父である市辺押磐皇子の遺骨を捜し出し、正統な皇族として弔うことでした。これは恐らく自身の皇位の正当性を証明することでもあったと思われます。
父が討たれた野山は長年の歳月を経て荒廃しており、遺骨の所在は不明となっていました。天皇は全国に手配を行い、潜伏時代に縁のあった老女・置目(おきめ)から正確な埋葬場所の情報を得ました。
老女の案内によって無事に父の遺骨を発見した天皇は、涙を流してこれを迎え、都に手厚い陵墓を築いて改葬を行いました。情報を寄せた置目に対しては、宮中に近い場所に住まいを与え、手厚い報賞と終身の手厚い庇護を与えてその功に報いたそうです。
兄に諌められた父の仇:雄略天皇への復讐心
また、父を殺害した雄略天皇に対しての復讐心についてのエピソードも残っています。
古事記によると即位2年、直後に亡き父の無念を晴らすために雄略天皇陵の破壊を命じます(復讐のやり方、ちょっとエグい!)が、兄の億計王は陵の端を少しだけ掘って顕宗天皇の元に帰ってきます。
やはり、当時でも陵墓の破壊は道理にもとる(理に反する)とされていたようで、顕宗天皇から理由を問われた億計王は次のように回答します。
「父の仇を討つ思いだけで、大王陵を完全に破壊してしまえば、後の世の人々は必ず非難するでしょう。
ただ、父君の仇は報いずには済まされない。だから、その陵の端を少しだけ掘りました」
形式だけの復讐を果たしつつ、兄である顕宗天皇を結果的に守ることになった億計王。バランスの取れた賢い方だったのかも知れませんね。
顕宗天皇治世の時代背景と周辺エピソード
顕宗天皇が在位した5世紀後半(485年〜487年頃)は、雄略天皇による強力な中央集権化と血縁勢力の過酷な淘汰が落ち着き、乱れた宮中の秩序と王権の正統性を再構築する過渡期にあたっていました。
雄略天皇の時代には、皇位継承のライバルとなり得る多くの皇族や強力な豪族(葛城氏など)が次々と排除されたため、朝廷内部では皇統の血を引く男子が著しく不足するという危機的な状況が生じていました。
そのような時代背景にあって、志深の地から奇跡的に発見された市辺押磐皇子の遺児である弘計王と億計王の存在は、崩壊しかけていたヤマト王権にとっての大きな救いとなりました。
顕宗天皇と関連氏族・敵対勢力
顕宗天皇を取り巻く人間関係は、父の復権を支えた兄との絶大な信頼関係、皇統の空白を埋めた身内の庇護、そして王権を支えた有力豪族たちとの協力によって形成されていました。
同母兄:億計王との強い絆
最大の支持基盤であり、生涯のパートナーとなったのは、同母兄である億計王(仁賢天皇)でしょう。
過酷な潜伏時代をともに励まし合って生き抜き、都へ戻った後も互いに相手を敬って皇位を譲り合いました。
顕宗天皇が即位した後は、が皇太子として弟の政務を全面的に支え、先述の通り父の仇である雄略天皇の陵墓を破壊しようとする顕宗天皇を諫めています。顕宗天皇が崩御された後は円滑に第24代:仁賢天皇として即位しました。
二人の間には一切の権力闘争が存在せず、古代の皇室史においても際立った兄弟愛を見せました。事実、兄が皇太子となった事例は仁賢天皇以外にありません。
飯豊青皇女や平群氏との協調
また、兄弟が譲り合っている間に宮中で政務を担ったとされる飯豊青皇女も重要な存在です。
飯豊青皇女は履中天皇の皇女(あるいは市辺押磐皇子の妹)とされ、二人の王子が即位をためらっている間、自ら角刺宮において臨的に政務を執り、朝廷と祭祀の停滞を防ぎました。
この手厚い配慮があったからこそ、兄弟は落ち着いて即位の時期を迎えることができました。
豪族関係においては、大連として政権の実務を担当した平群真鳥(へぐりのまとり)をはじめとする平群氏が強力な支持勢力となりました。
平群氏は顕宗天皇の補佐として朝廷内で急速に存在感を強め、後の仁賢天皇・武烈天皇の時代に至る政治的影響力を確立していきました。
顕宗天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 顕宗天皇(けんぞうてんのう) |
| 本 名 | 弘計王(をけのみこと) |
| 御 父 | 市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ) ※履中天皇 第一皇子 |
| 御 母 | 葛城 荑媛 (かつらぎのはえひめ) |
| 御 陵 名 | 傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ) |
| 陵 形 | 前方後円墳 |
| 所 在 地 | 奈良県香芝市北今市 |
| 交通機関等 | JR 香芝駅から徒歩約19分 |
| 御在位期間 | 480年~484年 |
顕宗天皇が眠る傍丘磐坏丘南陵は、奈良県香芝市の静かな住宅地の合間にひっそりと佇んでいます。
巨大な権力を誇示した天皇たちの巨大古墳とは異なり、どこか控えめなその姿は、天下を治める野心よりも肉親への愛情と兄への敬意を重んじた顕宗天皇の控えめな人柄を映し出しているかのようです。
幼くして父を奪われ、名もなき民として土にまみれた日々。そして、天皇という至高の座に就きながらも、復讐の刃を収めて兄に未来を託し、わずか3年でこの世を去った若き君主。
木々のせせらぎが聞こえるこの御陵の前に立つと、憎しみの連鎖を断ち切った人間の気高さと、歴史の波に翻弄された一人の青年の静かな息遣いを感じることができます。
派手な功績はなくとも、皇室の歴史に確かに刻まれた「優しさ」の記憶に触れに、ぜひこの地を訪れてみてください。











