ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は、父・醍醐天皇の”延喜の治”とともに、平安時代の理想的な親政と称えられる”天暦の治”を体現し、勅撰和歌集の編纂や数々の宮中歌合を通じて国風文化の黄金期を築き上げた第62代:村上天皇(むらかみてんのう)の御生涯をご紹介します。
政務に対する誠実な情熱と、風雅な芸術への深い愛着を併せ持ち、穏やかな時代の中で輝きを放った帝の足跡を辿ってみましょう。
村上天皇の人物像・エピソード

宇多野小学校横から拝所へと繋がる道を行きます。
村上天皇は、926年(延長4年)7月14日、第60代・醍醐天皇の第14皇子として誕生し成明(なりあきら)と名付けられました。
母は太政大臣・藤原基経の娘である中宮・藤原穏子(ほうし)です。
同母の兄には第61代:朱雀天皇がいましたが、男子の皇子がいなかったことや健康上の問題があったため、成明親王は944年に皇太弟へ立てられ、946年(天慶9年)5月23日、朱雀天皇からの譲位を受けて21歳で第62代天皇として即位しました。

石段を登り拝所へ向かいます。思ったより長い石段なので心して登られてください。
村上天皇の人となりは、極めて知的で誠実、かつ細やかな気配りを持つ人物であったと伝えられています。
幼少期から学問を深く修め、和歌、管弦、書道など多岐にわたる宮中文化において類まれなる才能を発揮しました。一国の最高統治者としての強い責任感を抱き、夜遅くまで書類に目を通す勤勉な執政姿勢を保ちました。
村上天皇の風雅な人柄と文化への情熱を象徴する有名なエピソードが、960年(天徳4年)に催された「天徳の内裏歌合(てんとくのだいりうたあわせ)」です。
この歌合は宮中において最大規模で開催され、当代屈指の歌人たちが集いました。
なかでも、左方の平兼盛による「しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思うと 物のいうまで」と、右方の壬生忠見による「恋すふと わが名は立ちぬ まだきにて たれもしりけり わが恋は」という、ともに歴史に残る名歌の対決が圧巻でありました。
判定役であった藤原実頼ら公卿たちが甲乙つけがたく判断に迷っていた際、村上天皇が密かに「しのぶれど…」と口ずさまれました。
その声を耳にした実頼らが天皇の意を汲み、平兼盛の勝利と決定しました。
敗れた壬生忠見は落胆のあまり食事が喉を通らなくなり、そのまま病に倒れたと伝えられるほど、文化に対する真剣な真勝負が繰り広げられた瞬間でありました。

また、天皇の優しい人柄を示す伝承として鶯宿梅(おうしゅくばい)のエピソードが知られています。
清涼殿の前にある梅の木が枯れた際、村上天皇は西の京にある民家で見事な紅梅を見つけ、宮中へ移植させるために買い求めました。
ところが、その梅の枝には冊紙が結びつけられており、そこには「勅なれば いとひて折らむ 鶯の 宿はと問はば いかが答へむ」(詩人・紀貫之の娘による和歌)と詠まれていました。
天皇は民家から風雅な樹木を奪おうとした自らの不調法を深く反省し、直ちに梅の木を元の民家へ返却させたという温かな逸話が残されています。
“天暦の治”における親政の推進と国風文化の完成

拝所が見えてきました。マジで石段が大変!思ったより大変です。
村上天皇最大の功績は、摂政や関白を置かず親政の体制を貫き、後に理想的な統治の模範とされる天暦の治(てんれきのち)を確立したこと、そして日本独自の国風文化の発展に決定的な影響を与えた点にあります。
949年(貞元2年)、長年朝政を支えてきた関白・藤原忠平が没すると、村上天皇は新たな関白を任命せず、自らが朝政の最高決定者として政務を掌管する姿勢を示します。
左大臣・藤原実頼や右大臣・藤原師輔といった実力者たちを配下に置き、公卿たちの意見を広く聴取しながらバランスの取れた国政運営を推進していくのでした。

Google Mapで見ると参道から拝所まで距離がないように見えますが、曲がりくねった石段のため段数がとても多いです
第一の実績は『後撰和歌集』の編纂指示と「梨壺の五人」の起用です。
951年(天暦5年)、村上天皇は宮中の昭陽殿に「和歌所」を設置しました。そこに大中臣能宣、清原元輔(清少納言の父)、源順、紀時文、坂上望城の5人の優れた歌人を集めました。
彼らは「梨壺の五人」と称され、天皇の命を受けて『古今和歌集』に続く第二の勅撰和歌集である『後撰和歌集』の編纂に着手しました。
同時に、古代の巨編『万葉集』に漢字で記された歌を読解・訓読する作業を命じ、日本の固有文学の整理と保存に大きな業績を残しました。

第二の実績は『延喜式』の施行と制度の完成です。
父・醍醐天皇の代から編纂が進められていた律令の施行細則集『延喜式』が、村上天皇の治世末期である967年(康保4年)に完成し、正式に施行されました。
これにより、古代から平安中期へと繋がる神事、宮中儀礼、行政手続きの具体的な規範が全50巻として網羅され、国家の法制度が完成をみました。

第三の実績は、貨幣『乾元大宝』の鋳造と経済政策です。
958年(天徳2年)、和同開珎から続く「皇朝十二銭」の最後となる銅銭『乾元大宝(けんげんたいほう)』を鋳造・発行しました。
当時、銅の不足や経済構造の変化により銭貨の流通が著しく衰退していましたが、国家的権威の象徴として貨幣の維持に努めました。
これらの政治・文化的業績は、父・醍醐天皇の「延喜の治」と並び称され、「延喜・天暦の治」として後世の公家社会や江戸時代の天皇たちに至るまで、目指すべき親政の理想像として尊ばれることとなりました。
村上天皇治世の時代背景

村上天皇が治めた946年から967年という10世紀半ばの時代は、前代に起きた「承平・天慶の乱」(平将門の乱、藤原純友の乱)が沈静化した後です。
東国や西国の動乱が治まり、平安京には束の間の平和が訪れていました。
武士の急速な台頭という社会構造の変化を内抱しつつも、中央においては公家社会の秩序が固まり、独自の優美な「国風文化」が最も洗練された形で開花した黄金期でありました。

村上天皇自身の関心や趣味は、学問、和歌、書道、そして管弦に向けられていました。
特に楽器の演奏に秀でており、琵琶の秘曲である「玄上(げんじょう)」や「黄帝(こうてい)」の演奏法を相伝されたほか、琴(箏)の演奏においても宮中随一の腕前を誇りました。
夜間に自ら弦を奏で、公卿や奏者とともに音色の美しさを楽しんだと伝えられています。
村上天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

村上天皇を取り巻く人間関係は、父・醍醐天皇の遺志、藤原北家嫡流との協調、そして後宮を通じた摂関政治への伏線によって構成されていました。

皇室内部における関係では、父である醍醐天皇および母の藤原穏子からの手厚い庇護を受けて育ちました。同母兄である朱雀天皇との兄弟仲も良好であり、円滑な譲位によって即位を果たしました。
政治的な基盤となったのは藤原北家です。
関白を務めた藤原忠平の没後、その息子たちである藤原北家の嫡流が朝廷の要職を占めました。
長男の藤原実頼が左大臣、次男の藤原師輔が右大臣に就任し、政権の双璧をなしました。村上天皇は関白を設置しなかったものの、実頼の厳格な職務遂行能力と、師輔の柔軟で細やかな補佐を活用し、両者の均衡を保ちながら政務を進めました。

後宮との関係においては、右大臣・藤原師輔の娘である藤原安子(宣耀殿女御)を深く寵愛しました。
安子との間には憲平親王(後の第63代・冷泉天皇)、守平親王(後の第64代・円融天皇)、為平親王ら多くの皇子・皇女が誕生しました。
村上天皇の崩御後、安子の生んだ皇子たちが相次いで即位したことで、藤原師輔の系統(九条流)が外戚としての地位を確固たるものにし、後に藤原道長や藤原頼通らが誇る摂関政治の全盛期へと直結する血統の基礎が形作られました。
村上天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 村上天皇(むらかみてんのう) |
| 本 名 | 成明(なりあきら) |
| 御 父 | 醍醐天皇(だいごてんのう) |
| 御 母 | 藤原穏子(ふじわらの おんし/五条后) |
| 御 陵 名 | 村上陵(むらかみのみささぎ) |
| 陵 形 | 円丘 |
| 所 在 地 | 京都府京都市右京区鳴滝泉谷町 |
| 交通機関等 | 京福電気鉄道北野線「宇多野駅」下車、北へ徒歩約15分、 または京都市営バス「宇多野病院前」下車、徒歩約10分 |
| 御在位期間 | 946年 〜 967年 |
967年(康保4年)7月5日、村上天皇は平安京の内裏において、42歳で崩御されました。
村上天皇が静かに眠る村上陵は、京都市右京区の鳴滝、緑豊かな自然に包まれた宇多野谷の地に築かれています。
摂関を置かずに自ら政務を執り、『後撰和歌集』の編纂や『延喜式』の施行を通じて平安王朝文化と制度の完成を成し遂げた村上天皇。
42年の生涯を駆け抜けた帝の御陵は、現在も宮内庁によって神聖かつ厳重に管理されており、訪れる人々に対して、平安の黄金期に光を灯した英主の気高き足跡を静かに語りかけています。

拝所から見える景色。木々の向こうにある宇多野小学校からは、元気な子どもたちの声が聞こえていました
