ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は、夫・天武天皇とともに激動の飛鳥時代を駆け抜け、日本という国家の骨格を強固に作り上げた第41代:持統天皇(じとうてんのう)の御生涯をご紹介します。
愛する身内を失う悲劇に見舞われながらも、国家の安寧と自らの血統の繁栄のために冷徹なまでの政治的執念を燃やし続けた女帝の、気高くも悲壮な足跡を、ともに辿ってみましょう。
持統天皇の人物像・エピソード
持統天皇の本名は鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)と言います。
大化の改新を主導した天智天皇の第二皇女として誕生し、母は大臣・蘇我倉山田石川麻呂の娘である蘇我遠智娘(そがのおちのいらつめ)という血統の持ち主です。
幼少期は、身内の凄惨な権力闘争の陰影に覆われていました。649年、祖父である蘇我倉山田石川麻呂が父・中大兄皇子(天智天皇)によって謀反の疑いをかけられ、追いつめられて自害。
母の遠智娘は父への絶望とショックから精神を病み、鸕野讚良皇女が幼い頃に早世したとされています。
幼少期に母の実家が実父によって滅ぼされるという悲劇を体験したことは、彼女の性格に深い慎重さと、目的のためには身内であっても切り捨てる冷徹な政治的現実主義を植え付けることとなりました。
古代日本屈指のカリスマ:天武帝の妃へ
13歳で叔父にあたる大海人皇子(後の天武天皇)の妃となった彼女は、単なる後宮の女性にとどまらず、夫の政治的パートナーとして頭角を現しました。
672年に起こった壬申の乱では、吉野から東国へ逃れる作戦の初期段階から夫に同行し、病弱な身体を押して陣頭に立って軍勢を鼓舞したとされています。
天武天皇の即位後は常にその側に侍り、朝政の諮問に応じるなど、共同統制者とも言える強い発言力を保持していました。
天武の血統を護持しようとする不屈の意思
持統天皇の人となりを最も象徴するのが、目的の達成に向けられた不屈の意思と、時として向けられた残酷なまでの冷酷さであります。
686年に天武天皇が崩御すると、持統天皇は自らの生んだ草壁皇子(くさかべのおうじ)へ皇位をスムーズに継承させるため、最大の障壁となっていた甥の大津皇子(おおつのおうじ)に謀反の容疑を被せ、捕縛して即座に自害へ追い込みました。
大津皇子は文武両道に優れ、人々からの人望も厚かったため、この処断は後世において草壁皇子のライバルを排除するための冤罪であったと強く指摘されています。
“春過ぎて 夏来にけらし 白妙の” 歌人としての側面
また一方で、彼女は繊細な美意識を持つ歌人でもありました。
『万葉集』や『小倉百人一首』に選切されている「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすふて 天の香具山」という有名な御製は、初夏の爽やかな風景を歌い上げた名作として知られています。
政治の第一線で見せた冷徹な判断力と、詩歌に見られる優雅な感性が同居していた点こそ、持統天皇という人物の多面的な魅力と言えます。
藤原京の造営と、本格的な律令国家の樹立
持統天皇の歴史的功績は、夫・天武天皇の遺志を継承して藤原京を造営し、律令国家の法体系を完成させたこと、ならびに太上天皇(上皇)の立場から皇位継承の安定化を図った点にあります。
飛鳥浄御原令・庚寅年籍にみられる律令体制の構築
天武天皇の崩御後、持統天皇は即位の儀礼を行わずに称制を開始し、朝政を直接統括しました。
689年には、天武期から編纂が進められていた日本初の本格的な体系的法典である飛鳥浄御原令(あすかのきよみはらりょう)を公布・施行しました。
さらに翌690年には、全国的な公式戸籍である庚寅年籍(こういんねんじく)を作成させます。この戸籍は6年ごとの造籍の基準となり、公地公民制に基づく課税や兵役の調達を全国規模で運用するための決定的な基盤となったのでした。
中国式の条坊制都城、藤原京への遷都
そして、日本初となる本格的な中国式条坊制都城:藤原京(ふじわらきょう)への遷都も、優れた功績の一つとして挙げられます。
それまでの宮殿は天皇の代ごとに移転を繰り返す簡易なものでしたが、持統天皇は694年、格子状の道路区画を備えた壮大な都である藤原京へ都を移しました。
官庁街と居住区を整えた本格的な首都を構築したことは、ヤマト王権が豪族の連合体から中央集権的な国家へと脱皮したことを天下に示す象徴的な快挙でありました。
日本で初めて太上天皇(上皇)を称し、後見政治を確立
さらに持統天皇の功績として知られのが皇位継承システムの改革と後見政治の確立です。
愛する草壁皇子が28歳で急逝すると、持統天皇は690年に自ら第41代天皇として正式に即位し、草壁皇子の遺児である珂瑠皇子(後の第42代・文武天皇)が15歳に達した697年、生存中に皇位を譲り渡しました。
この際、自らは日本史上初となる太上天皇(上皇)を称し、若き文武天皇の後見人として実権を握り続けます。
701年の大宝律令の完成も、持統上皇の強い政治的指導力のもとで達成されたものであり、時代が下って近世まで続く院政の先駆けとなる政治形態を創出したとも解釈することができます。
持統天皇治世の時代背景・周辺エピソード
持統天皇が在位および執政を行った680年代末から700年代初頭は、古代日本において天皇という称号と日本という国号が定着し、東アジアの古代国家として対外的な威信を急速に高めていた時代です。
政治的には、天武期に推し進められた皇親政治(皇族を中心に政務を固める体制)から、次第に実務能力を備えた貴族層を中央官僚として組み込んでいく時期でもありました。
中国の唐王朝からの政治的圧力を意識し、唐に抗し得る対等な国家体制を国内に急速に構築することが最大の課題とされていました。
白鳳文化の芽生え、亡き夫:天武帝への想い
また文化面においては、仏教文化と独自の伝統文化が融合した白鳳文化が最高潮を迎えており、薬師寺の建立をはじめとする大規模な寺院建築が進められるなど、仏教を通じた国家鎮護の思想が浸透します。
漢字の音訓を用いて日本語を表記する万葉仮名が定着し、宮廷文学としての和歌が華開いた時代でもありました。
このような時代背景の中で、持統天皇自身の日常や強い関心は、亡き夫・天武天皇の菩提を弔うこと、そして吉野への頻繁な行幸に向けられていました。吉野は壬申の乱の挙兵の地であり、天武天皇との思い出が詰まった聖地でもあったからか、生涯で31回もの吉野行幸を行った記録が残っています。
さらに、生活や死生観においては、夫である天武帝と同様に道教思想や仏教の影響を深く受けていました。持統天皇は崩御に際し、自らの遺体を火葬にすることを命じました。
これは歴代天皇の中で最初となる火葬の例であり、それまでの大規模な陵墓に遺体を埋葬する伝統的な葬送儀礼から脱却を図る画期的な決断でもありました。
持統天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性
持統天皇を取り巻く人間関係は、愛する我が子と孫への執着、不運なライバルたちへの容赦ない粛清、そして新たに頭角を現した藤原氏との連携によって形作られていました。
草壁皇子の即位を願い、皇位継承のライバル大津皇子を排除
冒頭でもご紹介した通り、父は天智天皇、母は蘇我遠智娘です。同母姉には天武天皇の妃となった太田皇女(おおたのひめみこ)がいます。
夫である第40代:天武天皇とは、夫婦であると同時に国家改革を推進する最強の政治的同志でありました。持統天皇のあらゆる施策は、天武天皇の遺志を全うするという強い使命感に基づいていたと言えます。
子供や後継者を巡る関係においては、第一皇子である草壁皇子の存在が中心でありました。
草壁皇子を即位させることが持統天皇の悲願でありましたが、皇位継承のライバルには異母兄であり太田皇子(同母姉)の子である大津皇子が存在していました。
大津皇子は、容姿端麗で軍事や学問にも長けており血統も申し分ない、草壁皇子の地位を脅かす最大のライバルでありました。
持統天皇は天武天皇の死後、即座に大津皇子を死に追いやることで草壁皇子の地位を確定させるのですが、草壁皇子は即位することなく28歳で早世してしまいました。
絶望に直面した持統天皇は、草壁皇子の遺児である孫の文武天皇(珂瑠皇子)を即位させるため、自ら女帝として即位して後見役を果たすことになります。
藤原氏大繁栄の基礎を築く藤原不比等との協力
豪族や臣下との関係において、重要なパートナーとなったのが藤原不比等(ふじわらのふひと)です。中臣鎌足の子である藤原不比等は、高い実務能力と法制の知識を買われて持統天皇の側近として活躍します。
不比等は律令編纂や藤原京造営を進め、自らの娘である藤原宮子を孫の文武天皇の后(首皇子・後の聖武天皇の母)として迎え入れさせ、皇室家の外戚の地位を手に入れることに成功します。
この婚姻関係により、後の奈良時代における藤原氏の繁栄と摂関政治の基礎が築かれることとなりました。
身内を犠牲にしてでも自らの血統に即位の座を集中させ、武家政権に先駆けて後見政治の枠組みを作り上げた持統天皇。
その冷徹なまでの政治的手腕と情熱は、古代日本の歴史において最も強烈な光と影を放っているのです。
持統天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 持統天皇(じとうてんのう) |
| 本 名 | 鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ) |
| 御 父 | 天智天皇(てんちてんのう) |
| 御 母 | 蘇我遠智娘(そがのおちのいらつめ) |
| 御 陵 名 | 檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ) ※天武天皇との合葬 |
| 陵 形 | 上円下方墳 |
| 所 在 地 | 奈良県高市郡明日香村大字野口 |
| 交通機関等 | 近鉄 飛鳥駅から徒歩約17分 |
| 御在位期間 | 690年~697年 |
檜隈大内陵は、奈良県明日香村ののどかな田園風景の中に佇んでいます。
歴代天皇として初めて火葬された後、その遺骨は銀の骨壺に納められ、最愛の夫の棺の傍らにそっと寄り添うように安置されたと言い、全国的にも珍しい合葬陵です。
また、道教的な思想を反映したとされる八角形の美しい墳丘は、古代社会において天皇の権威を象徴する特別な形でもあります。
壬申の乱という過酷な運命に翻弄されながらも、愛する家族の死を乗り越え、新しい国家の形を力強く築き上げた女帝・持統天皇───。
飛鳥の風に吹かれながら拝所の前に立って目を閉じると、千三百年の時を超えて激動の時代を駆け抜けた夫婦の壮大な愛と情熱の記憶が目の前に浮かんでくるかのようです────。














