ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は日本史上最も有名なランドマークの一つ「奈良の大仏」を建立し、華麗なる天平文化の頂点を極めた第45代:聖武天皇(しょうむてんのう)をご紹介します。
彼は、藤原氏の血を引く初めての天皇として即位し、華やかな文化の影で、相次ぐ天変地異や疫病、政治抗争に心を痛め続けた「祈りの人」でもありました。
聖武天皇の人物像・エピソード

第45代天皇である聖武天皇の本名は首(おびと)と名付けられました。
文武天皇の第一皇子として誕生しましたが、幼くして父を亡くしたため、祖母である元明天皇や叔母である元正天皇が次々と即位し、首親王が成人するまでの中継ぎを務めました。
周囲の厚い庇護のもとで大切に育てられた親王は、724年に24歳という若さで皇位に就くこととなりました。
繊細で真面目な性格?仏教への深い信仰心

人となりとしては、非常に繊細で真面目であり、人一倍強い責任感と深い信仰心を持った人物であったと伝えられています。彼の治世は、天災や大規模な疫病の流行、政治的な動乱が相次いだ激動の時代でした。
これら国内の悲惨な状況に対し、為政者としての重い責任を感じた聖武天皇は、精神的に深く苦悩しました。その苦悩の表れとして、都を平城京から恭仁京、難波京、紫香楽宮へと次々と移転させる「彷徨(ほうこう)の季節」と呼ばれる異例の事態を引き起こすこととなりました。
また、皇太子であった第一皇子の基王を、生後わずか一年未満で亡くした際には、深い悲しみのあまり激しく哀哭したと記録されています。
この我が子の早世や相次ぐ社会の混乱が、天皇を本格的な仏教信仰へと向かわせる決定的な契機となりました。
自らを「三宝の奴(さんぼうのやっこ)」と称するほど仏教に深く帰依し、世俗の最高権力者でありながらも、仏の慈悲によってすべての民を救おうと真摯に願った、苦悩と誠実さに満ちた為政者でした。
鎮護国家思想に基づき、国分寺と東大寺大仏を造営

参道を歩くと鹿がひょっこり顔を出してきました
聖武天皇が成し遂げた最大の歴史的功績は、仏教の教えを中心とした鎮護国家(ちんごこっか)の思想に基づき、国家の精神的な大黒柱を構築したことです。
国分寺・国分尼寺建立の詔

私の一歩先を行き、御陵参拝に向かう鹿さま御一行
当時、日本は天然痘の大流行や大地震、反乱といった災難に相次いで見舞われており、天皇はこれらを仏法によって鎮めようと、全国の国ごとに国分寺・国分尼寺の建立を命じました。741年に発せられた国分寺・国分尼寺建立の詔です。
これは、日本全国の諸国にそれぞれ一つずつ国分寺と国分尼寺を建立させ、国家の平安と五穀豊穣を祈らせる壮大な地方統治計画でした。
この大事業は信仰による国のまとまりを強めた一方、民衆には過酷な労役、地方には巨額の財政負担を強いることになりました。
この過度な仏教傾倒による財政破綻こそが、奈良時代末期の国力を疲弊させ、のちに光仁天皇が断行することになる徹底した緊縮財政や、行政改革が必要となった最大の引き金へと繋がってしまいます。
東大寺の大仏造営

どうやら参拝ではなかったようです。
そして743には年、自らの治世の集大成となる大仏造営の詔を発布します。これは、宇宙の根本仏である盧舎那仏(るしゃなぶつ)の巨大な銅像を造営するという、当時の国力を結集した未曾有の大事業でした。
この事業を推進するにあたり、朝廷から一時弾圧されていた高僧・行基(ぎょうき)を民衆の勧進(寄付集め)の責任者として起用し、広く一般の民衆からも協力を募りました。これにより、朝廷と民衆が一体となって大仏造営が進められることとなりました。
大仏は最終的に平城京の東大寺に安置され、752年(天平勝宝四年)には華々しい「大仏開眼供養(だいぶつかいがんくよ)」が執り行われました。
この時、天皇はすでに譲位して上皇(聖武上皇)となっていましたが、光明皇太后(光明皇后)とともに式典に列席しました。開眼の儀式を執り行い、大仏の目に墨を入れる大導師には、インドから遥々来日した高僧である菩提僊那(ぼだいせんな)が迎えられました。
式典のバックでは、ベトナム出身の僧侶である仏哲(ぶってつ)らによって林邑楽(りんゆうがく)などの音楽が華やかに演奏され、国際色豊かな天平文化の精神が世界に向けて遺憾なく発揮されました。
国家仏教の完成

さらに、正式な僧侶としての規律を国内に確立するため、唐から数々の苦難と失明を乗り越えて来日した鑑真(がんじん)を平城京に迎え入れました。
東大寺に戒壇院(かいだんいん)を創設し、聖武上皇や光明皇太后が自ら鑑真から戒律を授かりました。これにより、日本の仏教界における正式な授戒制度が完成し、国家公認の宗教としての基盤が盤石なものとなりました.
聖武天皇治世の時代背景

聖武天皇が統治した八世紀前半から半ばにかけての天平時代は、律令制度が成熟期を迎える一方で、内部の矛盾や急激な社会の変化による動乱が相次いだ時代でした。
特に天平7年(735年)から同9年(737年)にかけて、遣新羅使などが持ち込んだとされる「天然痘(てんねんとう)」の大流行は凄惨を極め、当時の日本の総人口の約三分の一近くが失われたと推測されています。
この疫病によって、朝廷の政治を主導していた有力な貴族たちが相次いで病死し、政治体制は大きな打撃を受けました。
このような未曾有の疫病や飢饉、天変地異による社会不安が地盤となり、民衆の生活は極めて困窮していました。
墾田永年私財法の制定

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聖武天皇は民衆の負担を軽減し、同時に地方の開墾を促進して国家財政を安定させるため、七四三年に「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」を制定しました。 ※とても長い名前なのになぜかみんな覚えている名前として有名ですね。
これは、新しく開墾した土地の永久私有を認める画期的な法律であり、それまでの「公地公民」の原則を大きく転換させ、後の荘園の発生へと繋がる重要な契機となりました。
天平文化の成熟

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天皇自身の文化的な趣味としては、唐の高度な文化や芸術を深く愛好していたことが知られています。
天皇が日々愛用した調度品や、海外から取り寄せた美術品、さらには当時の公式文書などは、崩御後に光明皇太后によって東大寺の正倉院(しょうそういん)に奉納されました。
これらは現在も「正倉院宝物」として厳重に保管されており、シルクロードを通じて大陸や西アジアからもたらされた国際的な天平文化の粋を現代に伝えています。
また、ゆかりの地としては、平城京はもちろんのこと、彷徨の季節に建設された恭仁京(京都府木津川市)、紫香楽宮(滋賀県甲賀市)、難波京(大阪市)が挙げられます。
聖武天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

聖武天皇を取り巻く人間関係は、強力な外戚である藤原氏との密接な連携と、それに反発する他氏族や皇族勢力との激しい権力闘争によって彩られていました。
皇室家の外戚として力をつける藤原氏

天皇の最大の政治的支持基盤であり、後ろ盾となったのは、藤原不比等の血を引く藤原氏です。
不比等の娘である藤原宮子(ふじわらのみやこ)は聖武天皇の実母であり、さらに不比等の別の娘である光明子(こうみょうし、後の光明皇后)は聖武天皇の正妃として迎えられました。
光明子は、皇族以外の臣下の出身としては日本史上初めて「皇后(こうごう)」の地位に就くという異例の出世を果たしました。
この光明皇后の存在が、聖武天皇の仏教政策や貧民救済事業を精神的・実務的に強力に支えることとなりました。
皇統から完全に離れる蘇我・石川系の血統

しかし、この藤原氏の急速な権力独占に対しては、朝廷内で激しい反発が巻き起こりました。
治世の初期には、皇族の筆頭であった長屋王(ながやおう)が藤原氏と鋭く対立しましたが、729年に藤原四兄弟の策略によって長屋王が謀反の嫌疑をかけられ、自害に追い込まれる「長屋王の変」が発生しました。
さらに、天然痘の大流行によって藤原四兄弟が全員病死した後は、皇族出身の橘諸兄(たちばなのもろえ)が政権を握りましたが、これに不満を抱いた藤原広嗣が740年に九州の太宰府で大規模な兵を挙げる「藤原広嗣の乱」を起こしました。
聖武天皇はこの反乱に強い衝撃を受け、平城京を離れて諸国を転々とする原因となりました。
反乱は朝廷軍によって速やかに鎮圧されましたが、その後も藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)などの新たな実力者が台頭し、皇室を巻き込んだ権力闘争は絶え間なく続きました。
聖武天皇の治世は、藤原氏との強固な絆に依存しつつも、それによって引き起こされる政変の波に常に脅かされる過酷な環境になったのでした。
聖武天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 聖武天皇(しょうむてんのう) |
| 本 名 | 首皇子(おびとのみこ) |
| 御 父 | 文武天皇(もんむてんのう) |
| 御 母 | 姪娘(めいのいらつめ) |
| 御 陵 名 | 佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ) |
| 陵 形 | 山形 |
| 所 在 地 | 奈良県奈良市法蓮町 |
| 交通機関等 | (バス停) 法蓮仲町から徒歩約6分 |
| 御在位期間 | 724年~749年 |
聖武天皇が静かに眠る佐保山南陵は、かつて彼が統治した平城京の北東に広がる佐保山の美しい丘陵地に位置しています。
すぐ隣には、生涯の伴侶であり、ともに天平の激動期を歩み抜いた光明皇后の佐保山東陵が寄り添うようにして築かれており、二人の深い絆を今に伝えています。
度重なる天災や政変に心を痛め、仏教の慈悲による国家の救済にすべてを捧げた大王の御陵は、現在も深い静寂と神聖な空気に包まれており、訪れる人々に対して、華やかで国際色豊かな天平の世の歴史を静かに語りかけています。

拝殿を振り返ると見える景色
