第50代:桓武天皇 〜平安千年の都を築き、日本の新時代を拓いた英主

第26-50代

ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。

今回は、奈良の古い因習を打破し、千年の都となる平安京を開いた第50代:桓武天皇(かんむてんのう)をご紹介します。

激動の時代に政治と宗教の改革を断行し、東北平定を推し進めた不屈のエネルギーに満ちた治世と、その広大な足跡を詳しく紐解いていきましょう。

桓武天皇の人物像・エピソード

桓武天皇は、天平9年(737年)に光仁天皇の第一皇子として誕生し、本名にあたる諱は山部(やまべ)といいます。彼は本来、皇位を継承する立場にはありませんでした。

父である光仁天皇が即位した際、当初は他戸親王が皇太子に立てられていましたが、宮廷内の政変によって他戸親王が廃されると、山部親王が急遽皇太子となり、45歳という当時としては比較的遅い年齢で即位することとなったのでした。

 

平城京からの遷都を断行した強固な決断力

彼の卓越した人となりを伝えるエピソードとして、妥協を許さない強固な決断力と、旧来の因習を恐れない不屈の開拓精神が挙げられます。

彼が即位した当時、平城京では仏教勢力が政治に深く介入し、朝廷の権威を揺るがすほどの旧弊が蔓延していました。これに対して桓武天皇は、平城京を捨てるという極めて大胆な改革を決断します。

また、彼の名前に「武」の文字が含まれていることからも分かるように、歴代天皇の中で「武」の字を冠する天皇の時代には、国家のあり方を根底から揺るがす大きな出来事や抜本的な変革が起こる傾向があります。

桓武天皇もまた、その生涯を通じて大規模な軍事遠征と遷都という国家的事業を精力的に指揮し続けた、極めて行動力に溢れた覇王でした。

早良親王(崇道天皇)の祟りとの戦い?

とても長い参道です。

彼の人となりは、極めて果断で行動力に富む反面、身内の不幸や怨霊の存在に対して非常に繊細で、強い恐怖心を抱く人物であったと伝えられています。

その二面性を最も象徴する事件が、実の弟である早良親王(さわらしんのう)を巡る悲劇です。長岡京の造営を推進していた最側近の藤原種継が暗殺された際、早良親王がその首謀者として疑われ、乙訓寺へ幽閉された後に淡路島へ流される途中で没しました。

この事件以降、桓武天皇の身辺では、中宮の藤原乙牟漏や生母の高野新笠など、近親者が相次いで病死する悲劇に見舞われます。さらに、都に大雨による大洪水や疫病が流行したため、これらをすべて早良親王の祟りであると恐れました。

桓武天皇はこの怨霊の恐怖から逃れるため、造営中であった長岡京をわずか9年で放棄し、新たな土地への再遷都を決断することになります。このように、国家を揺るがす大事業を次々と成し遂げた強権的な統治者の裏には、常に目に見えない怨霊への深い苦悩と怯えが隠されていたのかも知れません。

平安京の造営と蝦夷征伐、そして仏教勢力の刷新

参道を進むと、ウグイスの声が。794年に平安京へ遷都した桓武天皇陵にぴったりの雰囲気でした。

桓武天皇が成し遂げた最大の功績は、千年の都となる「平安京」の造営です。長岡京での祟りを断ち切るため、山背国葛野郡の地に都を移しました。

この地は北に船岡山、東に鴨川、西に桂川を配する地勢の理想郷であり、天皇はこの新たな都を「天然の要害に守られた平穏な都」という意味を込めて平安京と名付けました。これが、その後の日本の文化や政治の中心地となる京都の礎となりました。

長岡京への遷都

長い参道を振り返ると見える景色。

天皇はまず784年、平城京の旧弊から脱却するために長岡京への遷都を断行しました。

奈良の地には東大寺の大仏殿に代表される巨大な寺院が立ち並び、僧侶たちが政治の実権を握るかのように偉そうに振る舞う状況が続いていたため、この影響力を断ち切ることが至上命令だったのです。

しかし、長岡京の地では洪水が相次いで氾濫し、さらに政治的な暗殺事件や身内の不幸が重なるなど、不穏な事態が続きました。

そこで天皇は、さらなる国家の刷新を目指し、794年に再び宮を遷すことを決断します。

千年の都:平安京への遷都

京都御所。のちに”千年の都”と称されることになる都です。

この新たな都こそが、後に千年の都となる平安京です。

この一大事業において天皇を強力に支え、都の地を選定したのが、かつて道鏡との政治闘争に敗れて大隅の国へ流罪に処されていたものの、見事に中央へと復帰した和気清麻呂でした。

和気清麻呂は、東西南北を四神が守護する「四神相応(ししんそうおう)の地」として山背(やましろ)の国を選び出しました。

四神相応の思想において、南の朱雀には大きな池や海、西の白虎には大きな道、北の玄武には山、東の青龍には川が配置されている必要があり、この完璧な地形を備えた土地を切り拓くことで、永続的な平和を願う新都・平安京が誕生したのです。

坂上田村麻呂による東北遠征・蝦夷討伐

左が桓武天皇の御陵、右を進むと伏見桃山運動公園(伏見城跡)へと続きます。

もう一つの大きな功績は、東北地方における蝦夷(えみし)の征伐と、朝廷の支配領域の拡大です。

当時、現在の東北地方では、朝廷の支配に激しく抵抗する蝦夷の勢力が強大化していました。桓武天皇は大規模な軍勢を何度も派遣しましたが、当初は蝦夷の指導者であるアテルイらの巧妙なゲリラ戦術に翻弄され、多大な損害を出しました。

そこで天皇は、武勇に優れた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍に大抜擢します。田村麻呂は巧みな軍略と融和策を組み合わせることでアテルイを降伏させ、胆沢城や志波城を築いて朝廷の北方を盤石に防衛することに成功しました。

 

仏教の新時代を担う最澄・空海の登用

平城京の古い仏教から距離を置く一方で、新時代を担う新たな仏教の知識人として最澄を厚く保護しました。最澄は遣唐使として大陸に渡り、帰国後の805年に天台宗を開くこととなります。

天皇は最澄に比叡山を委ね、平安京の鬼門(北東)を守護する比叡山延暦寺を建立させました。これは、都に侵入しようとする邪悪な災いや悪魔を防ぐための、高度な宗教的防衛国家としての施策でした。

最澄の開宗に続き、翌年には空海が帰国して真言宗を開くなど、桓武天皇の強力な主導によって、平安の世を精神的に支える新しい仏教の時代が幕を開けたのです。

 

桓武天皇治世の時代背景

桓武天皇が国を治めた8世紀末から9世紀初頭の日本は、長年にわたる天武天皇系の皇統から、天智天皇系の皇統へと国家の主導権が大きく移り変わる一大転換期にありました。

それまでの平城京では、巨大化した仏教寺院が政治に深く介入し、皇位を巡る権力闘争が激化していました。

桓武天皇は、こうした奈良の旧弊や仏教勢力の影響力を完全に断ち切るため、仏教寺院を伴わない新しい都の建設を強く志向していたという時代的背景があります。

大きな政策転換のきっかけとなる徳政論争

しかし、二度にわたる大規模な遷都と、東北地方への度重なる軍事遠征は、国家の財政を著しく圧迫し、民衆に過大な労役の負担を強いることとなりました。

治世の晩年である延暦24年(805年)には、朝廷内で「徳政論争」と呼ばれる大激論が巻き起こります。

参議の藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)が「現在、天下の民が苦しんでいる原因は軍事と造作である。この二つをただちに停止すべきだ」と主張し、菅野真道(すがののまみち)がこれに反論しました。

桓武天皇は緒嗣の意見の正しさを認め、自らのライフワークであった蝦夷征伐と平安京の造営を中止するという英断を下しました。

 

のちに千年の都と呼ばれる京都御所

また、天皇の趣味やゆかりの地に関する現代の足跡として、現在の京都市内に残る京都御所が挙げられます。

かつての平安京の大内裏の面影を伝えるこの御所は、現在でも当時の壮大な治世を偲ぶことができる極めて重要な歴史的空間です。

さらに、明治時代になり、平安京への遷置千百年を記念して建立された「平安神宮」の社殿は、当時の平安京の大内裏の一部を実物の約8分の5の大きさで忠実に再現したミニチュアのような構造を持っており、桓武天皇の築いた文化の華やかさを今に伝えています。

 

桓武天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性

桓武天皇の権力基盤と政治的対立は、彼の家系的な出自と密接に結びついていました。

 

百済系氏族に支えられた政治基盤

彼の母である高野新笠(たかののにいがさ)は、百済の武寧王の子孫とされる和氏の出身であり、朝廷内では決して有力な豪族の後ろ盾を持っていませんでした。

この出自の低さが、初期の山部親王の立場を不安定なものにしていましたが、それゆえに彼は既存の旧豪族の権威に縛られない独自の政治を行うことができました。

即位後は百済王氏(くだらのこにきし)の一族を優遇し、彼らを重用することで自身の側近勢力を固めました。先述した徳政総論でも登場した菅野真道も百済系の渡来人だとされています。

 

早良親王との対立にもつながる藤原种継の暗殺

宮廷内での最大の後ろ盾となったのは、藤原北家の藤原种継(ふじわらのたねつぐ)です。

種継は長岡京の遷都を実務面で全面的に主導しましたが、平城京の旧勢力や大伴氏・橘氏といった伝統的な豪族たちの激しい反発を買いました。その結果、種継は長岡京の街頭で暗殺されるという悲劇を迎えます。

この暗殺事件の首謀者として、桓武天皇の弟であり皇太子であった早良親王が拘束され、廃太子へと追い込まれたことで、兄弟の関係は最悪の結末を迎えました。

 

征夷大将軍:坂上田村麻呂と蝦夷の指導者:アテルイ

一方、外的な敵対勢力としては、東北地方の独立を守るために朝廷に立ち向かった蝦夷の指導者、アテルイ(阿弖流為)が挙げられます。

アテルイは優れた軍事指揮官であり、朝廷軍を何度も壊滅させるなど、桓武天皇にとって最大の軍事的な脅威でした。最終的に坂上田村麻呂に降伏したアテルイを、田村麻呂は助命するよう朝廷に嘆願しましたが、桓武天皇や朝廷の貴族たちは野蛮な蝦夷の首領を生かしておくわけにはいかないとして、河内国で処刑しました。

このように、身内の怨霊や地方の反乱勢力との飽くなき戦いと決断の連続が、彼の人間関係の基軸を成していました。

 

桓武天皇陵の基本情報

項 目 名 内 容
天 皇 名 桓武天皇(かんむてんのう)
本   名 山部(やまべ)
御   父 光仁天皇(こうにんてんのう)
御   母 高野新笠(たかののにいがさ)
御 陵 名 柏原陵(かしわばらのみささぎ)
陵   形 円丘
所 在 地 京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎
交通機関等 近鉄 近鉄丹波橋駅から徒歩約16分
御在位期間 781年~806年

 

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