ようこそ、みささぎめぐりへ───。歴代天皇の陵墓をめぐり、当時の景色に思いを馳せる旅。
今回は、幕閥政治が成熟を見せる江戸時代中期、弟である桃園天皇の不測の急逝を受け、わずか5歳の甥へ皇統を繋ぐ中継ぎの女帝として即位し、退位後も「国母」と称されながら後進の天皇を導き続けた第117代:後櫻町天皇(ごさくらまちてんのう)の御生涯をご紹介します。
奈良時代の称徳天皇以来、実に119年ぶりに誕生した女性天皇であり、日本史上「最後の女性天皇」となった帝の、凛とした気品と深い慈愛に満ちた足跡を、ともに辿ってみましょう。
後櫻町天皇の人物像・エピソード
第117代天皇である後櫻町(ごさくらまち)天皇の本名は、智子(としこ)と名付けられました。幼名は以茶宮(いちゃのみや)、のちに緋宮(あけのみや)と改められました。1740年(元文5年)9月23日、第115代・桜町天皇の第二皇女として誕生しました。母は関白・二条吉忠の娘である太上天皇寛后・二条舎子(青綺門院)です。同母の弟には第116代・桃園天皇がいます。
智子内親王が即位するに至った背景には、皇室を突然襲った不幸と皇位継承の危機が存在しました。1762年(宝暦12年)、朝廷の自立を目指しながらも挫折を味わった弟の桃園天皇が、22歳という若さで急逝してしまいました。桃園天皇の遺児である英仁親王(後の第118代・後桃園天皇)は、当時はまだわずか5歳でありました。幼少の皇子を直ちに即位させることは、宮中の動揺や摂関家および江戸幕府による過度な政治的介入を招く恐れがありました。この事態を受け、英仁親王が成長するまでの「中継ぎ」として、23歳の智子内親王が急遽擁立され、第117代天皇として即位することとなりました。女性天皇の誕生は、第109代・明正天皇以来119年ぶりの出来事でありました。
後櫻町天皇の人となりは、極めて聡明で理知的であり、深い慈愛と強い責任感を備えた人物であったと伝えられています。幼少期から学問や有職故実を深く修め、和歌や書道、さらには漢学に至るまで幅広い教養を身につけていました。生涯を独身で過ごし、自らの子供を持ちませんでしたが、その温かい人柄から「国母(こくぼ)」と称され、公卿や庶民から深く慕われました。
後櫻町天皇の慈悲深さと君主としての品格を示す有名なエピソードが、退位後の1787年(天明7年)に発生した「天明の大飢饉」における行動です。全国的な不作と食糧不足により飢餓が蔓延し、京都の街にも行き倒れる人々が溢れました。困窮した庶民は助けを求め、御所の周りを幾重にも取り囲んで「御所千度参り」を行いました。
この窮状を知った後櫻町上皇は心を痛め、自らの仙洞御所から3万個におよぶ和リンゴを買い集め、参集した庶民ひとりひとりに振る舞いました。さらに、お茶や赤飯、お餅なども買い与えて配給させ、飢えに苦しむ人々に救いの手を差し伸べました。権力の頂点にありながら常に民の苦しみに心を寄せ、身を削って施しを行った姿勢は、乱世の荒波の中で皇室の精神的威厳を天下に広く示すこととなりました。
また、後継者である若い天皇たちに対する強い指導力と優しさを示すエピソードも残されています。1789年(寛政元年)、後述する「尊号一件」において、実父へ太上天皇の称号を贈りたいと熱望する光格天皇と、幕府の法規を楯に拒否する老中・松平定信との間で激しい対立が勃発しました。激怒して幕府との全面対決をも辞さない構えを見せる若い光格天皇に対し、後櫻町上皇は自ら手紙を送り、「天皇としての御代を長く無事に全うすることこそが、天下に対する第一の孝行である」と優しく諭しました。後櫻町上皇の賢明な助言により、光格天皇は自自の強い主張を撤回し、朝廷と幕府の致命的な破局は回避されました。自己の感情に流されることなく、国家の長期的な安泰を見据えて若い帝を諭した手腕に、後櫻町天皇の優れた思慮が表れています。
皇統の防衛と「国母」としての朝儀・知の再興
後櫻町天皇が自らの治世および退位後の長きにわたる生涯において主導し、達成した最大の歴史的功績は、幼少の皇子を守り抜いて持明院統の皇統を確実に次代へ継承させたこと、ならびに『禁中年中の事』の著述や後進の教育を通じて朝廷の伝統と有職故実を完全な形で未来へ伝授した点にあります。
第一の実績は、徹底した皇統の防衛と後継者の育成であります。後櫻町天皇は1770年(明和7年)、13歳へと成長した英仁親王へ円滑に皇位を譲り渡し、後桃園天皇として即位させました。しかし、後桃園天皇もまた元来が病弱であり、1779年(安永8年)にわずか22歳で崩御してしまいました。しかも、後桃園天皇には男児が存在せず、直系の皇統が完全に断絶する危機に直面しました。
この未曾有の危機に際し、後櫻町上皇は主導権を握り、閑院宮家からわずか9歳の師仁親王(後の第119代・光格天皇)を迎え入れて皇位を継承させました。後櫻町上皇は光格天皇の「育ての親」兼「後見人」として宮中に入り、帝王学や礼節、学問の指導を親身に行いました。この後櫻町天皇の決断と指導があったからこそ、南北朝以来の皇統は断絶することなく守られ、現代の皇室へと続く決定的な血脈の架け橋が築かれることとなりました。
第二の実績は、宮中儀礼の再興と有職故実の体系化であります。後櫻町天皇は、自らが宮中で培った有職故実の知識や年中行事の作法、さらには皇首としての心構えを整理し、著作『禁中年中の事(きんちゅうねんじゅうのこ事)』を執筆しました。この書物は、戦乱や中断によって途絶えがちであった古代以来の朝儀の作法を正しく記録したものであり、光格天皇をはじめとする後世の天皇たちにとって不可欠な手本となりました。
第三の実績は、学問と王朝文学の振興であります。後櫻町天皇は自ら学問を非常に好み、退位後も院伺候衆である唐橋在熙や高辻福長らを宮中に招き、『孟子』『貞観政要』『白氏文集』『論語』などの漢籍や歴史書の進講を日夜受けました。また、和歌においても歌道の名人として知られ、古今伝授の血脈を継承する歌人として数々の秀歌を詠み、御製集『後桜町院御集』を遺しました。自ら学問と芸術の模範を示し、公家社会の知性を高めた業績は極めて高い評価を受けています。
後櫻町天皇治世の時代背景
後櫻町天皇が在位した1762年から1770年という時期は、元号で言えば宝暦から明和にあたり、江戸幕府の第10代将軍・徳川家治のもとで、側用人から老中へと上り詰めた田沼意次が実権を握る「田沼時代」の黎明期から最盛期にあたっていました。
政治的には、幕府の財政再建を目指して株仲間の結成や銅座・油座の設置、長崎貿易の拡大、さらには蝦夷地の開発計画など、重商主義的な商業重視の政策が積極的に推進された時代でありました。経済活動が活発化して都市部が華やかに潤う一方で、賄賂政治の横行や通貨の改鋳に伴う物価の高騰が進み、農村部との貧富の差が拡大し始める過渡期でもありました。
宮中および政治的思想の面においては、1767年(明和4年)に「明和事件」が勃発しました。尊王思想家である山県大弐や藤井右門らが、江戸において足利幕府の例を引いて幕府の無策を批判し、昌平坂学問所の門人らとともに朝廷を中心とする国家の再興を密かに画策したとして、幕府によって逮捕・重罪(死刑や追放)に処された事件です。前代の宝暦事件に続き、尊王論の芽が幕府の強権によって摘み取られた時期でありましたが、後櫻町天皇は宝暦事件の教訓を深く受け止め、朝廷が過度な政治的陰謀に巻き込まれるのを防ぎつつ、宮中の平静と自尊を保ち続けました。
文化面においては、江戸や京都を中心として、後に化政文化へと結実する多彩な町人文化が成熟を見せていました。鈴木春信による多色摺り浮世絵(錦絵)の誕生や、解体新書の翻訳(1774年)へと繋がる蘭学の普及、さらには国学の発展など、新しい学問や芸術が芽吹く文化的な百花繚乱の時代でありました。
このような時代背景の中で、後櫻町天皇の日常や心寄せる関心は、日夜の学問探求、古典の書写、和歌の詠作、そして内裏の細やかな神事に注がれていました。天皇は過度な豪華さや華美を退け、規則正しく慎み深い生活を重んじました。
食生活や日常の暮らしにおいても身丈に合った伝統的な和食や季節の味覚を好み、先述の通り自分自身が食すことよりも、困窮する民や周囲の公卿たちに食べ物を分かち合う配慮を忘れませんでした。
天皇にとっての最大のゆかりの地は、即位から譲位に至るまでの全治世を過ごした「京都御所(土御門東洞院内裏)」です。また、退位後に長年の修養と後進の指導を行った「仙洞御所」、天明の大飢饉の際に民へリンゴや茶を配給した御所の門前、そして崩御の後に御霊が静かに祀られている京都府京都市東山区の「月輪陵(泉湧寺内)」が、後櫻町天皇の慈悲と知性に満ちた生涯を今に伝える重要な歴史的聖地となっています。
後櫻町天皇と関連氏族・敵対勢力との関係性
後櫻町天皇を取り巻く人間関係は、父・桜町天皇からの血統と志の継承、外戚である名門公家・二条家からの手厚い支援、慈愛をもって育て上げた幼い天皇たちとの絆、そして江戸幕府との調和と緊張のバランスによって形作られていました。
皇室内部および血縁関係において、父は第115代・「桜町天皇」、母は太上天皇寛后・二条舎子(青綺門院)です。父・桜町天皇は朝儀の復興に成功した英主であり、後櫻町天皇はその父の遺志を受け継ぎ、宮中儀礼の保持に全力を尽くしました。同母弟の第116代・「桃園天皇」が若くして亡くなった後は、その遺志を背負って自ら帝位に就きました。
自身が「母親代わり」として深い愛情を注いで育て上げたのが、甥の第118代・「後桃園天皇(英仁親王)」と、閑院宮家から迎えた養子の第119代・「光格天皇(師仁親王)」であります。特に後桃園天皇の早世後、直系の途絶という絶望的な状況の中で光格天皇を養子として即位させ、崩御に至るまで親身に補佐し続けた関係は、皇室の歴史における美しい師弟・親子愛として語り継がれています。
母方の実家である「二条家(藤原北家摂関家)」は、関白・二条吉忠をはじめとして朝廷内で手厚い支援を提供しました。二条家は摂関家の筆頭として宮中実務を担当し、若い女帝の足元を政治面から強力に支えました。
武家政権との関係においては、第10代将軍・「徳川家治」、老中・「田沼意次」、ならびにその後の寛政の改革を推進した老中・「松平定信」との間で、基本的には公武協調の路線が維持されました。幕府側も、女帝である後櫻町天皇の穏やかで理知的な姿勢を深く尊重し、朝廷への経済的支援や儀式の挙行を認めました。
しかし、尊号一件の際には、老中・松平定信が「禁中並公家諸法度」を理由として光格天皇の要求(実父・典仁親王への太上天皇尊号授与)を強硬に拒絶したため、朝廷と幕府の間に緊迫した摩擦が生じました。後櫻町上皇はこの窮地において、光格天皇の感情的な暴走を冷静に抑え込み、幕府との決定的な対立を回避させました。幕府の威勢に安易に屈するのではないものの、朝廷の平穏と天皇の治世を守るために最善の選択を下した姿勢に、後櫻町天皇の君主としての卓越した政治的知性が表れています。
後櫻町天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 後櫻町天皇(ごさくらまちてんのう) |
| 本 名 | 緋宮 智子(あけのみや としこ) |
| 御 父 | 桜町天皇(さくらまちてんのう) |
| 御 母 | 二条舎子 |
| 御 陵 名 | 月輪陵(つきのわのみささぎ) |
| 陵 形 | 九重塔 |
| 所 在 地 | 京都府京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 |
| 交通機関等 | JR奈良線・京阪本線「東福寺駅」下車、東へ徒歩約20分、 または京都市バス「泉涌寺道」バス停下車、東へ徒歩約15分 |
| 御在位期間 | 1762年~1770年 |
1813年(文化10年)12月24日(旧暦11月2日)、後櫻町上皇は74歳という高齢で崩御しますが、帝の徳と実績を称えて「後櫻町院」の追号が贈られました。
なお、後櫻町天皇以降に崩御した天皇にはすべて「院」ではなく「天皇」の号が贈られたため、後櫻町天皇は日本史において崩御後に「院」と称された最後の天皇ともなりました。
幼小の皇子へ皇統を繋ぐ中継ぎとして即位し、天明の荒波や尊号一件の試練の中で慈愛と知性をもって後進を導き続けた後櫻町天皇。
宮内庁によって厳重かつ神聖に管理されている泉湧寺内の月輪陵は、現在も京都の静謐な空気の中に佇んでおり、訪れる人々に対して、日本最後の女帝として気高く輝いた帝の足跡を静かに語り続けています。
