第122代:明治天皇 〜激動の幕末を越え、日本を近代国家へと導いたカリスマ

第101代-

「みささぎめぐり」へようこそ。歴代天皇の足跡を辿る旅。

今回は、日本の歴史において最大の激変期とも言える幕末の大動乱を乗り越え、アジアの一小国に過ぎなかった日本を、世界列強と肩を並べる近代的立憲国家へと一気に脱皮させた、第122代:明治天皇(めいじてんのう)の御足跡へと迫ります。

千年以上の長きにわたり、京都の静寂な宮廷の中で祭祀を司ってきた「伝統的な大王」のあり方を根底から覆し、激動する国際社会の荒波のなかで自ら先頭に立って国を牽引した近代的君主。

神話と現実、古き伝統と新しき文明が凄まじいエネルギーで衝突し、融合していった明治という時代の象徴たるその力強い歩みと、知られざる人間味あふれる素顔を、じっくりと時間をかけて紐解いてまいりましょう。

明治天皇の人物像・エピソード

明治天皇は、その諱(本名)を「睦仁(むつひと)」といいます。

嘉永五(1852)年、幕末の不穏な空気が漂い始める京都の地で、孝明天皇の第二皇子として生を受けられました。幼名は「祐宮(さちのみや)」と呼ばれ、母である中山慶子の実家で健やかに育てられましたが、彼の運命は十代前半にして劇的な転換を迎えることになります。

慶応二(1866)年、父・孝明天皇が激動の政局のなかで突如として崩御されたことにより、睦仁親王はわずか数え年十六歳(満十四歳)という若さで、あまりにも重い皇位を継承することとなったのです。

若き日の明治天皇は、千年の伝統に守られた京都御所の奥深くで、白粉を塗り、眉を剃るという、古き公家文化のなかで育った繊細な少年でした。

しかし、時代の奔流は彼をいつまでも宮中の奥に留めておくことを許しませんでした。明治という新時代が幕を開けると、彼は自らの姿を劇的に変革させていきます。公家風の雅な衣装を脱ぎ捨て、断髪を行って髭を蓄え、西洋風のきらびやかな軍服を身にまとうことで、自らを国家の最高指揮官たる「大元帥」へと変貌させたのです。

これは単なるファッションの変更ではなく、諸外国に対して「日本は新しく生まれ変わった近代国家である」ということを明確に示すための、きわめて高度な政治的決断でした。

 

その一方で、天皇のパーソナリティは非常に実直で寡黙、そして一度決めたことは絶対に曲げない強靭な意思の持ち主でした。

新時代を象徴するモダンな君主として振る舞いながらも、内面はきわめて質素倹約を重んじ、宮廷の贅沢を激しく嫌ったと伝えられています。また、他者への細やかな配慮を忘れない情に厚い人物でもあり、戦時中には兵士たちの寒さを想い、暖房のない自室で夜を過ごしたという、厳格な責任感を示すエピソードも残されています。

古き日本の精神を受け継ぎながら、新しき世界の文明を貪欲に吸収したその立ち姿こそ、明治天皇という不世出の指導者の本質だったのです。

明治維新の断行と近代立憲国家の確立

明治天皇が自ら新政府の総覧者として成し遂げた最大の功績は、旧来の封建社会を完全に解体し、日本をアジア初の本格的な立憲君主制国家へと押し上げたことにあります。

慶応三(1867)年の大政奉還、そして翌年の王政復古の大号令を経て、天皇は自ら新しい国づくりの基本方針となる「五箇条の御誓文」を神々に誓う形で宣布されました。広く会議を起こして万機公論に決すること、官武一途に庶民に至るまで各々その志を遂げさせることなどを示したこの歴史的宣言により、日本は五百年の武家政治に完全に別れを告げ、近代化への一歩を踏み出したのです。

天皇の強い指導力のもとで断行された「版籍奉還」や「廃藩置県」は、それまで各藩の領主が独自に支配していた日本を、一つの強力な中央集権国家へと統合する歴史的大事業でした。

さらに明治二十二(1889)年、天皇はみずからの手で「大日本帝国憲法」を発布し、翌年には帝国議会を開設させました。これにより、日本は欧米列強と同等の「法の支配」が行われる最先端の立憲国家であることを世界に証明したのです。

 

また、外交面における実績も凄まじいものがありました。

当時の日本が最も苦しんでいた、幕末に結ばされた不平等条約(領事裁判権の撤廃、関税自主権の回復)の改正に向けて、自ら岩倉使節団を欧米へ派遣するなど、国家の威信をかけたタフな外交交渉を後押しし続けます。

治世の後半に勃発した日清戦争や日露戦争においては、自ら大本営の置かれた広島などへ移動し、大元帥として軍の最高指揮権を行使しながら、国家の生存をかけた戦いを勝利へと導きました。

ただ武力で敵を討ち倒すだけでなく、国際法を遵守し、法に則った近代的な近代国家の枠組みを完成させたことこそ、明治天皇が成し遂げた不滅の業績と言えるでしょう。

 

明治天皇治世の時代背景

明治天皇が君臨した四十五年間は、日本が「尊王攘夷」の血生臭い動乱から、西欧の文明を爆発的なスピードで吸収していった「文明開化」の熱気あふれる大転換期でした。

街には蒸気機関車が走り、瓦ガス灯が夜を照らし、人々は和服に身を包みながらも頭にはザンギリ頭を乗せるという、まさに古き良き日本と西洋の最先端が奇妙に、そしてエネルギッシュに同居する、凄まじい社会的エネルギーに満ちあふれた治世だったのです。

このような激変する時代のなかで、明治天皇の私生活における周辺エピソードを覗いてみると、彼の最大の趣味であり、精神の拠り所となっていたのが「和歌(御製)」の世界でした。彼は生涯のなかにあって、実に十万首近くにも及ぶ膨大な数の和歌を詠まれたと伝えられています。

「よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ち騒ぐらむ」に代表される彼の歌の数々は、激動する国際社会のなかで平和を希求する切実な想いや、市井に暮らす民衆の苦しみに寄り添う深い慈悲の心が、天平や平安の時代から続く洗練された王朝文学の美しさで見事に表現されており、芸術家としての類い稀なる才能を示しています。

また、食文化における非常に興味深いエピソードとして、明治天皇は日本の歴史上で初めて「公式に牛肉を食した天皇」でもありました。

千年以上もの間、仏教的な禁忌や伝統によって、日本では獣肉、特に牛肉を食べることは不浄なものとして激しく忌み嫌われていました。

しかし、西洋諸国と対等に渡り合うためには、日本人の体格を向上させ、古い悪習を打破しなければならないと考えた明治政府は、天皇自らが肉食を行うことで国民の意識を改革しようと試みたのです。

明治五(1872)年、明治天皇が宮中で初めて牛肉を召し上がったというニュースが全国に流れると、人々はこぞって牛鍋(すき焼きの原型)を食べるようになり、これが文明開化の爆発的なシンボルとなりました。

天皇のゆかりの地としては、生まれ育った雅な京都御所はもとより、その崩御ののちに天皇の偉大な御魂を永遠に祀るために東京の地へ営まれた「明治神宮」、あるいは明治の建築物や文化を今に伝える愛知県の「博物館明治村」など、列島の各地に大王の情熱と文明開化の足跡が数多く刻まれています。

明治天皇と関連氏族・敵対勢力

明治天皇を巡る人間関係や政治的勢力図は、千年の伝統を誇る公家社会と、新たに台頭した薩摩・長州をはじめとする維新の志士たち、そして旧時代を守ろうとした徳川幕府一族との、複雑で凄惨な暗闘のなかにありました。

幼き大王の盾となり、新政府の立ち上げにおいて最大の政治的後ろ盾となったのは、岩倉具視や三条実美といった朝廷の開明派公家たち、そして西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)ら「維新の三傑」をはじめとする薩長土肥の若き志士たちでした。

彼らは旧来の形式主義に凝り固まった宮廷の反発を完璧に無力化し、若き天皇を「近代日本の絶対的主導者」として押し立てるための完璧なグランドデザインを描いたのです。

 

一方で、最大の敌対関係にあったのが、二百五十年間にわたり日本を支配していた徳川将軍家を中心とする旧幕府勢力でした。

最後の将軍・徳川慶喜が大政奉還を行ったものの、主導権を巡る両者の対立は避けられず、慶応四(1868)年には国を二分する「戊辰戦争」へと発展します。

しかし、新政府軍が天皇の正当性を証明する「錦の御旗」を掲げて進軍したことにより、幕府軍は「朝敵(天皇の敵)」としての烙印を押され、五稜郭の戦いに至るまでの激しい内戦を経て完全に解体されることとなりました。

しかし、明治天皇にとって最も悲劇的であり、生涯深く心を痛めることとなった関係性は、新政府の最大の功臣であった西郷隆盛との決別でしょう。

明治天皇は、武骨でありながら誠実極まりない西郷を実の兄のように慕い、絶大な信頼を寄せていました。しかし、朝鮮半島への外交方針を巡る政治的対立(征韓論争)により、西郷は政府を去り、やがて明治十(1877)年、不満を持つ士族たちに担がれる形で、新政府に対する最大にして最後の内乱「西南戦争」を起こすに至ったのです。

かつて自分を命がけで守ってくれた西郷の軍勢を、今度は自らが率いる官軍の武力によって討ち果たさねばならないという非情な現実。西郷が鹿児島城山で自刃した報を聞いたとき、明治天皇は深く絶望し、周囲の目をはばかることなく涙を流し、のちに西郷の名誉を回復させるために自ら尽力されました。

対立の火種を乗り越え、かつての敵味方の魂をも包み込んで一つの国家へと統合していった点に、明治天皇の卓越した君主としての深い関係性が透けて見えます。

その御陵は、豊臣秀吉の伏見城跡の敷地内でもある伏見桃山にあります。広大な古城山の地に見事な杉木立に囲まれた上円下方墳が鎮座しています。

 

明治天皇陵の基本情報

項 目 名 内  容
天 皇 名 明治天皇(めいじてんのう)
本   名 祐宮 睦仁(さちのみや むつひと)
御   父 孝明天皇(こうめいてんのう)
御   母 中山慶子
御 陵 名 伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)
陵   形 上円下方墳
所 在 地 京都府京都市伏見区桃山町古城山
交通機関等 JR 桃山駅から徒歩約20分
京阪 桃山南口駅から徒歩約20分
御在位期間 1867年~1912年
タイトルとURLをコピーしました