今日は第4代:懿徳(いとく)天皇が主人公です。
この「懿徳」という名は漢風諡号(かんぷうしごう)といい、持統天皇の治世に淡海三船(おうみのみふね)という人物が歴代天皇に奉ったものです 。
また懿徳天皇はいわゆる「欠史八代(けっしはちだい)」と呼ばれる、古事記や日本書紀に具体的な事績があまり記されていない天皇のお一人でもあり、実在が疑問視される天皇の一人でもあります。
しかしお母様や奥様、そしてご兄弟の存在がはっきりと系譜に記されていたり、関連する豪族の名が今も血脈を繋いでいることを考えると、ほぼ間違いなくヤマトを統治した方であったろうと思います。
ちなみに、歴史書に実績があまり残されていない理由についてですが、とある口伝では懿徳天皇の後の時代に大きな戦いに敗れてしまったため、あえて詳しく書かれなかった、というエピソードもあるようです。
稲作を広め、
懿徳天皇の治世は、お名前に「徳」の字が冠されていることからもわかるように、国が非常に豊かに潤った「最高に良い時代」であったと伝えられています 。
その最大の功績は、なんといっても「水稲耕作の拡大」でしょう。
当時の日本において、米作りは国の根幹を成す最重要事業でした。懿徳天皇は、この水稲耕作の技術を広め、収穫量を大きく増やすことに成功したのです。
この時代、国を治める「統治王」としての役割を懿徳天皇が担い、神々を祀る「祭祀王」としての役割はお兄様である息石耳命(おきそみみのみこと)が担うという、兄弟での絶妙な役割分担が機能していたと考えられています 。
政治と祭祀のバランスが取れた、非常に安定した国造りが行われていたと言えるでしょう。
懿徳天皇が水稲耕作を拡大し、豊かになった一方で、この時代は波乱の幕開けでもありました。
水稲耕作の技術が広まったとはいえ、すべての土地で同じようにお米が作れたわけではありません。水稲耕作の技術を持ち、適した土地を持つ地域は莫大な富を得て大いに儲かりましたが、一方でそうではない地域は恩恵を受けられませんでした 。
その結果、持てる者と持たざる者の間に、かつてないほどの激しい「貧富の差」が生まれてしまったのです 。自力でお米を作れず、豊かになれない人々はどうしたでしょうか。生き残るためには、豊かな地域から実りを奪うしかありませんでした 。こうして、富を求める周辺勢力との間で争いが頻発するようになります 。皮肉なことに、懿徳天皇がもたらした「豊かさ」こそが、のちに日本列島を二分するような大戦争「倭国大乱」へと繋がる最初の引き金(スタート)となってしまったのです 。平和で豊かな時代の裏側で、すでに次の戦乱の種が芽吹き始めていたという、歴史の奥深さと残酷さを感じさせる時代背景です。
懿徳天皇の祖父は、第3代安寧天皇(シキツヒコ)にあたります 。また、先述の通りお兄様には祭祀を司ったとされる息石耳命がいらっしゃいました 。
この時代における明確な敵対勢力の名前は記紀には目立って登場しませんが、前述したように、水稲耕作の恩恵を受けられなかった周辺の豪族や集落が、次第に大和政権にとっての脅威へと成長していったと考えられます 。懿徳天皇の時代は直接的な大戦争には至らなかったものの、経済格差から生じる不満が周辺地域に鬱積しており、これが後の時代に強大な敵対勢力として牙を剥くことになります 。懿徳天皇の治世は、まさに嵐の前の静けさであり、国が大きく発展すると同時に、国家としての防衛や統治のあり方が根本から問われ始める過渡期であったと言えます 。


