神武天皇が日本を建国してから、まだ物語が始まったばかりの時代。第4代・懿徳天皇は、歴史書に具体的な事件や争いごとの記録がほとんど残されていない「欠史八代」の一人に数えられています。
しかし、記録がないということは、言い換えれば「書くべき事件(争いや飢饉)がなかった」ということ。その名の通り「徳(いつくしみ)」を重んじ、波風の立たない平穏な時代を次世代に繋いだ、究極の守り手とも言える存在です。謎に包まれた、しかし確かにそこにいた「優しき王」の面影を辿ってみましょう。
「懿徳」の名が示す、誠実で立派な人柄
彼に贈られた「懿徳(いとく)」という名。この「懿」という漢字には「立派」「美しい」「誠実」という意味があります。 戦いに明け暮れる時代ではなく、人々の暮らしを整え、誠実に淡々と公務をこなす。そんな彼の真面目で穏やかな性格が、この美しい名前に込められているように思えてなりません。派手な英雄伝はありませんが、当時の人々にとって彼は「そこにいるだけで安心できる、温かな太陽」のような存在だったのかもしれません。
軽(かる)の地で、新しい時代を見つめた日々
懿徳天皇は、現在の奈良県橿原市付近にあたる「軽(かる)の曲峡宮(まがりのみつのみや)」に都を置きました。 後に万葉集でも「軽の市」として歌われるこの場所は、古くから交通の要所でした。天皇は宮殿の窓から、行き交う人々の活気ある姿を眺めながら、国が少しずつ豊かになっていく様子を喜んでいたのではないでしょうか。特別な奇跡を起こすのではなく、国民の日常が守られていることを何よりの幸せと感じる――そんな飾らない「生活者としての視点」を持った天皇だったと想像が膨らみます。
歴史を変えた「ご功績」と「時代の空気」
「平和というバトン」を繋ぐ難しさ
建国初期の不安定な時期に、先代から受け継いだ国を揺るがすことなく、次代へと無事に繋ぐ。これは、華々しい征服劇よりもはるかに難しい功績です。 当時は稲作が少しずつ広まり、集落がまとまり始めた頃。大きな内乱の記録がないのは、懿徳天皇が周辺勢力との対話を重んじ、調和を保つことに心を砕いていたからに違いありません。彼が守り抜いた「空白の平和」があったからこそ、後の巨大な前方後円墳が作られるような黄金時代へと繋がっていくのです。
旅のガイド:御陵(みささぎ)のいま
懿徳天皇が眠る「畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)」は、大和三山の一つ、畝傍山の南麓にあります。
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現地の情景: 初代・神武天皇の広大な御陵に比べると、驚くほど静かで、ひっそりとした佇まいです。参道は美しい砂利道が続き、周囲を深い森に囲まれています。観光客の喧騒から切り離されたその空間には、まさに懿徳天皇の人柄を映したような「凪」の時間が流れています。
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参拝ポイント: 近くには神武天皇陵がありますが、あえてそこから少し足を伸ばして、この静かな空間を訪れてみてください。「何も聞こえない贅沢」を感じられる場所です。橿原神宮からの散策コースとしても最適で、古代の風を感じながら歩くことができます。
⑤ 結び:現代に生きる私たちへ
大きな事件が起きない日々は、つい「当たり前」だと思ってしまいがちです。しかし、そんな平穏な一日こそが、実は最も尊いものであることを、懿徳天皇はその静かな生涯をもって教えてくれている気がします。心がざわつく現代だからこそ、彼の御陵を訪れ、その「穏やかな徳」に触れてみてはいかがでしょうか。


