「みささぎめぐり」へようこそ 。歴代天皇の足跡を辿る旅。
今回は、神武・綏靖と続いた初期ヤマト王権草創期の動乱を越え、その諡号の通り「安らかなる丁寧な統治」を目指したと思われる第3代:安寧天皇にスポットライトを当てます。
安寧天皇の人物像・エピソード

安寧天皇の本名は磯城津彦玉手看(しきつひこたまでみ)と言い、後の時代になって天智天皇の孫にあたる淡海三船(おうみの みふね)によって「安寧」という漢風諡号が贈られました。
この「安寧」という名は、とある口伝では安寧天皇の即位に際して皇位継承問題が起こらなかったためだとされているそうです。というのも、安寧天皇は兄弟のない一人っ子でした。
文字による記録が少ない「欠史八代」の一人であり、歴史家からは存在が疑問視されがちですが、口伝を元にした『天皇紀』の伝承によれば、東国の平定を進めた人物として伝わっているようです。
さらに、天皇の御本名である「磯城津彦(しきつひこ)」は、西暦107年に後漢へ生口(奴隷)をおくったとされる倭国王「帥升(すいしょう)」と同一人物だと伝わっているようです。
磯城津彦(しきつひこ)は日本書紀の記述であり、古事記では師木津日子(しきつひこ)と書きます。
※帥=師木津日子を指し、升とは首長を指すとされる。
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奈良盆地の豪族「磯城家」との深い結びつき

また安寧天皇の治世は、大和の在地豪族である磯城縣主(しきのあがたぬし)との関係が重要な意味を持っていたと思われます。
磯城(師木)とは奈良盆地東南部(三輪山の西)を示す地域なのですが、古事記によれば、安寧天皇の母や后は磯城縣主の娘とされています。
また安寧天皇の本名である師木津日子も、師木の日子(ヒコ=彦)、すなわち「師木を治める王」という意味があるようです。
※天津神、国津神と同じく”津=〜の、〜を治める”を意で使われていた?
このように大王家に妃を送り込むことに成功している磯城縣主、実は日本書紀の神武東征のエピソードで登場する弟磯城(黒速)の末裔にあたります。
記紀では、東征以前の奈良盆地の王はニギハヤヒかのように記されていますが、初代〜欠史時代の大王家に妃を輩出し大王の外祖父の座を維持し続けられた磯城の県主こそ、牽制を振るっていた豪族だったのではないでしょうか?
例えるなら平安時代の藤原氏スキームですね。
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安寧天皇陵の基本情報
| 項 目 名 | 内 容 |
|---|---|
| 天 皇 名 | 安寧天皇(あんねいてんのう) |
| 本 名 | 磯城津彦玉手看(しきつひこたまでみ) |
| 御 父 | 綏靖天皇(すいぜいてんのう) |
| 御 母 | 五十鈴依媛命(紀) 河俣毘売(記) |
| 御 陵 名 | 畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ) |
| 陵 形 | 山形 |
| 所 在 地 | 奈良県橿原市吉田町 |
| 交通機関等 | 近鉄 橿原神宮西口駅から徒歩約8分 |
| 御在位期間 | 紀元前549年〜紀元前511年 |
